『サザビーズで朝食を 競売人が明かす美とお金の物語』 フィリップ・フック


印象派絵画がどのように世界中で受け入れられていったかを美術史ではなく、美術市場という特殊な観点から刺激的に論じた『印象派はこうして世界を征服した』の著者フィリップ・フック。英国ケンブリッジ大学で美術史を修めた後、2大オークション会社クリスティーズとサザビーズ両方のディレクターを務め、独立した画商としての経験ももつ、美術市場の花形オークショニアである。本書の原題は、『Breakfast at Sotheby’s: An A-Z of the Art World』で、A-Zが示すように、近現代アートを中心とした美術市場の様々なトピックスをランダムに取り上げたものだ。私はアートと経済・マネーをテーマとした本が大好きなので、フィリップ・クックについては、先に挙げた『印象派はこうして世界を征服した』から注目していたが、最近読んだ田中 靖浩氏の『名画で学ぶ経済の世界史』でも、本書を含めたフィリップ・クックの著作が複数、参考書籍として紹介されていて、こちらも読んでみようと思い立った。

フィリップ・クックは生粋のイギリス人という感じで、『印象派はこうして世界を征服した』でも、フランス人とフランス文化を揶揄する時の饒舌さが際立っていて印象に残っている(多分、アメリカ人はハナからちょっと見下しているのでそこまでムキにならない)。本書も、いかにも知的エリートイギリス人の文章らしく、ほのめかしやシニカルな表現が多くて、とにかくまわりくどい。ザッツ・イギリス人、という感じである。思わず『カフェの文化史 ボヘミアンの系譜 スフィフトからボブ・ディランまで』の著者、スティーブ・ブラッドショーの文章を思い出した。フィリップ・クックはさすがにオークショニアとして抜群のセールス力と社交術を身に着けているので、ここまでペダンティックだったりしないし、適度にユーモアも効いていて読んでいてクスリとさせられる部分もあるのだが、それでも、ほのめかしや持って回った言い方に度々イラっとさせられたことも事実である。英国に長らく住む人が、イギリス人は京都人みたいなもの、と言っていたのを聞いたことがあるが、なんとなく頷ける。

それはともかく、本書の取り扱うトピックは広範囲だが、それが美術史学や美学的観点ではなく、美術市場の観点から語られているのが非常に面白い。美術市場の観点から、というのは、ズバリ、何が売れるか、より高い値段がつくか、という観点である。これは、日本の大学の先生からは中々教えてもらえない観点だ。

例えば、「美術市場で人気の高いアーティストたち(Individual Artists)」の章では、トップアーティストたちの作品群を「高く売れるか」どうかの評価基準でぶった切る。いわく、セザンヌなら果物、特にリンゴのある静物画、水浴図、風景画の順番、ドガはもちろんバレエダンサーで、洗濯女は女性像の中でも低い、ミロなら茶色よりも青色が多ければより高く評価される、etc…シスレーの風景画の価値基準は「青い空・その青い空が移っている水辺・木漏れ日をちらつかせる木々の葉・サイズが少なくとも60×73cmあること」の4点に集約できるし、マリー=テレーズの時代→青の時代とバラ色の時代→ドラ・マールの時代というように、ピカソの作品の序列を明確につけることも可能だ。

美術史学の大先生ならけしからんと激怒しそうだが、著者も認めている通り、ここでの評価基準は美術史や美学的な評価基準ではなく、あくまで市場の評価基準を分析しているのだ。この売れるかどうか、高値がつくかどうかの基準に、美術史学的あるいは美学的価値ももちろん大きく影響する。しかし、それ以上か同じくらいに、特定の表現や主題、あるいはモティーフが美術品の購買者層に好まれ、価格に影響を及ぼすのである。

特に興味深かったのは、特定の主題やモティーフが一定の購買者層に好まれるという分析だ。その中には、鉄道・笑顔・スポーツ(狩猟・ゴルフ)・雨・馬・枢機卿(Cardinals)なんてものまである。枢機卿?とさすがに面食らったが、実際、《ローマ・カトリック教会のお偉い方々の私的空間にいおけるおどけた空間が、かなりの数の人気画家やそのパトロンたちに強力な魅力を放っていたこと、そしてその人気は二十世紀に至るまでどっぷり続いて》いるそうである。つまり、枢機卿というモティーフで、反権威主義的な風刺やパロディを表現した作品に根強く人気があるという。

鉄道については、《とにかく絵画の世界では鉄道は売れる。おそらく我々のほとんどは、心の底では鉄道マニアなのだ》。馬については、少なからぬ英国人男性は《どうせ金を費やすのであれば、妻や愛人よりも、お気に入りのハンター馬を画家に絵として残らうほうが良い》と考えているし、アラブ種の雌馬は《強力な中東の市場に少なからずアピールする》。

個人的に面白いと感じたのは、良いお天気の風景画が好まれるのは装飾的な観点から頷けるが、悪天候の作品でも高い値がつくものがあり、そのうちの理由の1つに《世の中には、安心と温かさに満ちた室内から悪天候を見やることに対する喜びというものがある》からだという分析である。ひどい雨にも関わらず外出をしなくても良い幸運に恵まれた日、カーテンを開けて窓から外を覗き「ひどい雨」「こんなに積もってる」と一人胸のうちで呟く幸せを噛みしめたことがあるのは私だけではあるまい(私はかつてそういうシーンを小説の中で描いたこともある)。暖炉の燃える暖かなリビングの壁にかけられた降りしきる雨の絵が、そのような幸せの疑似体験をもたらすようだ。

美術作品を「高く売れるかどうか」の基準で分析するのは、卑しい下品なことだ、と美術史学や美学を専門的に修める人は感じるかもしれない。しかし、本当にそうだろうか?美術作品の商品的価値を考えることは、美術史学的価値の純粋性をおとしめることになるのだろうか?

美術作品の(一見、美術史的価値とは関係なさそうな)商品的価値の基準としては、装飾性(明るい色彩や額縁や景色)、購買者の特異な嗜好(スポーツとか馬とか枢機卿とか)、権威性と顕示欲(こんな高価で貴重な物を所有しているという満足感やそれを顕示したい欲求)などが挙げられるだろう。よく考えてみれば、長い歴史の中で、こういった装飾性・購買者(注文主)の特異な嗜好・権威性と顕示欲などから自由であった芸術作品など、ほとんど存在しないのである。近代よりも前には、王侯や大貴族といったパトロンの居城を豪華に装飾するため、あるいは権威を示すために美術作品は創られていた。宗教作品ですら、信者たちにアピールする装飾性と、外からは全く理解不能な宗教的モティーフや主題といった注文主の特異な嗜好、それに教会・ギルド・大貴族らパトロンの権威性と顕示欲を満たすことが評価基準になっていたはずだ。

美術作品がパトロンの嗜好や権威を反映したものだとしたら、明確な注文主が存在しない近代以降のアートの方がむしろ純粋芸術に近いと言えるのだろうか?これは、私がとても個人的にとても惹きつけられている問いである。もっと言えば、近代以降の芸術家たちにとってのパトロンとは誰なのか?という問いでもある。

ポール・デュラン=リュエルのような画商たちによるプロモーション、その顧客である富裕者層の嗜好や装飾意欲・所有欲・自己顕示的欲求が、近代以降のアートとその価値判断に全く影響を及ぼしていないとは考えにくい。芸術家は確かに自分自身の表現的欲求に従って作品を描くが、そのスタイルや主題が、パトロンの望むものと全く相いれない場合、その作品は決して世に出ることはないだろう。アーティストはいつも、自分の表現欲求やスタイルと、パトロンの嗜好や欲望との折り合いをつける必要があるのだ。私は以前、マイケル・フィンドレーの『アートの価値 マネー、パワー、ビューティー』についての記事で、こんなんことを書いた。

芸術家が自己の魂からの純粋な求めに応じてのみ表現する、などというのは、殆どの場合、幻想である。芸術家は、パトロンや社会的な要請に応じて、それと自分の表現したいものと表現できるものの接点を模索して創造するのだと思う。人によって、それを意識的に行うか、かなり無意識に行うかの違いはあるかもしれないが、印象派以降のアーティストに人々が抱きたがるような「純粋芸術家」という姿は、眉唾物だと私自身は思っている。そして、芸術にマネーや社会との関係を超えた価値があるとすれば(あるに決まっているのだが)、マネーや社会との関係を客観的に判断してからこそ、純粋にその価値が吟味できるのではないだろうか。

だとしたら、今や際限ない革新性が求められるモダンアートやコンセプチュアル・アートにおいて、制作の段階から影響を及ぼしているパトロンとは誰なのだろう?美術館やパブリックアートのニーズに応えうる公共性、大衆、世界中の富裕層やコレクターを抱えるアート業界、彼らに影響力をもつ美術批評家や画商・・・答えは何通りも考えられる。この問いに答えるためには、美術とは何か、資本主義とは何か、現代における信仰とは何か、についても深く考える必要がある。私がいつもアートとマネーやパトロンの関係に惹きつけられるのは、連鎖的に喚起されるこういった問いがとても複雑で刺激的だからだ。

最後に、本書で気になった点をメモとして引用しておく。トピックがランダムなため、総括するのは難しいが、いずれもビジネスとしてのアートだけでなく、美術史学や美学についての豊富な知識も兼ね備えた著者らしい、鋭く的確な洞察と文章である。

また、著者の個人的に愛好する画家や作品として、ドガに加え、ピーター・ブリューゲルやジェリコー、あるいはヴィクトリア朝時代の「ナラティブ・アート」 の作品が取り上げられていたことも印象的だったので備忘として記録しておく。

<Abstractl Art 抽象美術について>

抽象美術のもつミニマリズムゆえに、その評価の判断はきわめて基本的な美学的問題に集約される。

<Conceptual Art について>

コンセプチュアル・アートに暗に含まれているのは、その作品のアイデア、またはコンセプト(概念)が、作品そのものの制作よりも重要であるという原則である。

<Genius 天才 について>

天才はときおり、その幸福な最初のタッチのなかに存在するように見える。(略)

困惑するほどの単純さ、魔法のような速筆、幸福な最初のタッチ、徹底的な努力、あるいは運?だが、それを目にすれば、確かにそれとわかる。そして市場にも、それがわかるのである。

<Dealer 画商 について>

我々が知るような近代的な美術品取引の手法は、画商ポール・デュラン=リュエルによってパリで考案された。(略)

価値ある商品としてのアーティストを積極的にブランド化すること、彼らに俸給を払うこと、商業ギャラリーで開く一連の展覧会の出来を注意深く判定することで、さまざまな価格レベルを設定し、それによってアーティストを育てていくことーーーこれらすべて、ポール・デュラン=リュエルが十九世紀の最後の二十五年間に印象主義を市場に押し出したときの方法にその起源がある。

<Museum 美術館 について>

原題の美術館がもつ文化の神殿としてのイメージ、そうした半ば宗教的な地位は、人を畏怖させるような影響力をもつ。人々は畏敬の気持ちをもって美術館を訪れるし、またたとえば英国のナショナル・ギャラリーやテート・ギャラリーの館長たちは、以前であればカンタベリーやヨークの大主教たちに約束されていたのと同等の全国民的な崇敬を集める地位にある。だが、一部の純粋主義者たちは、美術館がさまざまに異なる種類の作品を混在させて所蔵していることが、美術品の正しい評価を傷つけると考えている。フランスの美術批評家テオフィル・トレ=ビュルガーは、早くも1861年にこの問題を認め、「美術館は、美術品の墓場にしかすぎない」と書いている。「かつて生きていたものの残骸が、死を思わせる様相で、ごたまぜ状態で配された地下墓地であるー官能的なヴィーナスが神秘的な聖母マリアの隣に、好色なサテュロスが聖人の隣に置かれているのだ」

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