『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』 若桑みどり


ずっと気になっていた本をやっと読めた。

長らくAmazonのカートに入れっぱなしにしていて、なぜこんなに気になっていたのか、とうの自分も忘れてしまったいた理由を、読みながらやっと思い出した。天正少年使節という誰もが歴史の授業で一度は耳にしたことのある名前。それなのに、織田信長の時代にヨーロッパに派遣されたキリスト教信者の少年たち、といったおぼろげなイメージがあるだけで、その後どんな成果があったのか彼らが大人になってどうなったのか、は全く覚えていない。覚えていないというより知らされていない、知る機会が無かった、と言った方が正しいだろう。

日本ではかくも小さな扱いの天正少年使節なのに、スペインやイタリア歴史や美術史の本を読んでいると、思いのほか彼らの名前に出会う機会が多いのに気づき、興味を持ち始めたのだ。スペインのフェリペ2世については過去に何度も触れてきたが、イエズス会から派遣された天正少年使節は彼にも謁見している。さらにヴェネツィア好きな私にとって、天正少年使節の名前に出会う度に、あ、また、と心を小さく揺さぶられることが重なっていった。矢島翠の『ヴェネツィア暮し』にも、内田洋子の『対岸のヴェネツィア』にも、同じ日本人としてはるか昔にこの地を訪れた天正少年使節に思いを馳せる場面が出てくる。さらに、宮下規久朗と佐藤優の対談『美術は宗教を超えるか』を読んで、かの有名なティントレット伊東マンショの肖像画を描いていたことを知る。ティントレットに肖像画を描いてもらったというのは王侯貴族並みの破格待遇である。ヴェネツィアでは今でも彼らの名前に頻繁に出会うのに、日本ではとんと出会わないのはどうしてなのだろう。そもそも天正少年使節って名前を知っているだけで中身を全然知らないのだ。それが「気になる」の大きな原因だった。

この本を読んでやっとその謎が解けた。どうして近代前のヨーロッパと日本の非常にレアな接点である天正少年使節団について、ヨーロッパと日本でこんなにも温度差があるのか。使節団が渡欧して貴重な体験をしている最中に、日本の歴史がドラスティックに変わってしまったからなのだ。

まさに、この1578年(天正六年)から信長暗殺の1582年(天正十年)が、日本キリスト教の絶頂期をかたちづくる。そしてこの絶頂期にヴァリニャーノは日本に来て、信長に会い、使節を連れて去ったのである。天正少年使節とは、この絶頂期が生み出したものであった。

織田信長の権力とともに絶頂を迎えた日本におけるキリスト教勢力に支えられ、華々しく送り出された天正少年使節団、少年たちが教皇に謁見し、ヨーロッパの王侯に迎えられ、青年として成長していく数年の間に、日本の権力の中心は信長から秀吉、そして家康へと瞬く間に変わっていってしまったのが、彼らの悲劇だった。

信長は朝廷と結びついた既存の仏教勢力を嫌い、キリスト教宣教師を優遇した。信長時代に日本においてキリスト教がどれだけ布教と勢力を拡大していたかは、その後の長い迫害の歴史からはちょっと想像がつかないレベルである。高山右近や小西行長といった代表的なキリシタン大名の名前はよく耳にするが、あの黒田官兵衛や千利休までキリシタンであったという説もあるほどだ。

信長はもちろん宗教的にキリスト教を信奉していたわけではないが、仏教勢力へのけん制という面だけでなく、政治的なバックボーンとしてキリスト教に親和性を感じていた。それは、信長の野望が単なる日本統一だけでなく、その先「アジア制服」にあったからだ、と著者は述べている。信長の最終目標は「アジア征服」にあり、のちの秀吉の朝鮮遠征はその部長野計画を継承し、失敗したにすぎない。

このように考えれば信長の奇行も理解できる。なぜ熱心にキリシタンを保護したかも納得できる。武器、大砲、艦隊、スペイン王との同盟。それもあるいは可能であろう。(略)自分がキリスト教を保護する日本国の国王となり、かつ東アジアの帝国の王となることは、スペイン・ポルトガル王がやっていることとまったく同じである。その国際事情を彼は足しげく安土の教会に通って神父から聞いていた。フロイスは信長について「恐ろしいまでに傲慢不遜」と書いている。その目が世界を見ているのならば、これほど傲慢不遜なことはない。もはやどのような同時代人とも同じ次元にいないのである。

信長がどれほど本気でアジア征服を考えていたか、東アジア帝国の王としてキリスト教を保護する姿勢を見ていたか、著者は、権力者の偉容を示すイベントである「馬揃え」についての朝廷とのやりとりや安土城城下町の造成の仕方などに着目して分析していく。このあたりは、いかにも美術史家の観点で非常に面白い。

信長は安土にいかなる宗教施設も建立させなかったにもかかわらず、オルガンティーノの願いを快く聞き入れ、城山のふもとにキリスト教会と住院を建立することを許可した。

ジョアン・フランシスコの書簡によると「信長の城は非常に高い所にあり、約三百の階段を昇ってゆく。この山の周囲には彼に臣従する大身らの家々があり、…一戸一戸が城のようである。山の頂上ははるかに大きく堅固な壁で囲われ、その内に主たる城がある。城は七層あって、城内の部屋があまりにも多いので、信長のことばによれば、彼も最近迷ったということである。部屋までの道筋を知るための標識は城内にたくさん置かれている種々の彫刻であり、これらはいずれも美しく完全であるが、信長はすこしの不完全にも我慢ができないので、日本でもっともすぐれた職人を各地に求めた」

「外部の影はいとも白く、最上階のみは、ことごとく金色と青色で塗られ、日光を反射して驚くべき輝きをつくりだしている。瓦はきわめて巧みに造られているので、これを外から見る者には薔薇か花に金を塗ったように見える」

この瓦は唐様の瓦を唐人に焼かせた特別のもので、信長はこれと同じ瓦の使用を特別に教会に許可したそうである。《この教会は「信長の屋敷についで安土でもっとも豪華」だった》

美術史家でなくても、この安土城とその下に広がる城下町の壮麗さを一目見たかったと誰もが思うだろう。キリスト教会はもちろん、安土城でさえ信長の失脚と共に焼き払われ、今では僅かな石垣の一部以外には跡形もない。

実は、当時の栄華と美しさを偲ぶよすがとして狩野永徳の筆による屏風絵があったと言う。

ただ、信長はこの壮麗な城と城下町を当代屈指の画家、狩野永徳に描かせ、その姿を保存しようとした。「それは金色で、そのなかに、城を配したこの市を、その地形、湖、屋敷、城、街路、橋、その他万事、実物どおり寸分たがわぬよう描くことを命じた」

この「安土城下町屏風」は、ローマ教皇への贈り物として、巡察師ヴァリニャーノに与えられ、少年使節とともにローマに行き、ヴァティカン宮殿に収められた。今それは理由不明のままゆくえがわからなくなっている。もしそれが残っていたら、キリスト教教会を含む信長の理想都市の偉容がわかるだろうに。

この屏風はヴァティカン宮殿のなかの「地図の廊下」に置かれていたが、いつのまにか行方不明になった。秋田裕毅氏はこれは湿度の差によるもので、乾燥のために破損した紙が剝げ落ちて、骨になっている屏風がポルトガルのエヴォラにあることから、おそらく乾燥と修理方法の知識のなさで放置された結果消え去ったのであろうと推測する。安土桃山時代の貴重な美術である、今はなき安土の都市図がこれで永久に消え去った。そこには青い屋根をもつ安土の天守閣と、同じ屋根をもつキリスト教住院が描かれているはずだった。

青と金色に塗られた天守閣を頂いた七層の安土城と、その下に連なるキリスト教寺院と城下町。戦国の世とは思えぬ奇抜さと壮麗さに彩られた城と町、それを統べる信長の威光を余すところなく伝える狩野永徳の筆。永遠に失われたものの大きさにため息がでてしまう。

しかし、少年使節と共にローマに渡り、一時期ヴァチカン宮殿を飾り、そしていづこともなく失われてしまった数奇な運命もまた、この屏風にふさわしい、と言えなくもない。信長の壮大な野望やそれに乗じた日本でのキリスト教宣教師の活躍、そして天正少年使節団たちの栄光までもが、儚く散り今は幻となっているのだから。

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