『唐草物語』 澁澤 龍彦


澁澤龍彦との出会いは確か12、3歳のとき。もしかしたら、まだ小学生だったかも。サガンやコレットから、フランス文学に興味を覚え始めた私は、全くどんな内容か知らずに、よりによってフランス文学コーナーにある『O嬢の物語』を図書館で借りてきてしまったのだった。(私の名誉のために言っておくが、当時の文庫版は、表紙の絵も今のようにモロではなかった)ご存知の方も多いと思うが、フランスポルノ文学の古典的作品。性の奴隷と化したO嬢、サディズムとマゾヒズムの交錯するめくるめくエロスの世界、、、はっきり言って半分も意味わからなかったと思う。そして、さすがに最後まで読む勇気が無く、途中で返却してしまったのだが・・・その衝撃は15年以上経った今も忘れられない。で、それを訳していたのが澁澤龍彦さん。普段は訳者なんて気にしないのだが、内容が衝撃的だったのと、苗字が特徴的だったので記憶に刷り込まれた。

それから、やたら「~の女たち」みたいな、世界の美女・女傑・悪女伝にはまったことがあって、そこで2回目の澁澤龍彦が登場。その名も『世界悪女物語』。内容は殆ど覚えておらず、文章も澁澤龍彦にしては簡潔だったと記憶しているが、残虐さや屈折したエロティシズムなど、通常の女性列伝とは一味違う視点で語られているのが印象的だった。そしてここで初めて作家自体に興味をもち、日本で初めて大々的にマルキ・ド・サドを紹介し、研究したフランス文学者であることを知った。

しかし、そこまでアブノーマルで耽美的な世界にのめりこめず、マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』と澁澤龍彦の『幻想の肖像』、どちらも途中で挫折した私は、そのままノーマルで健全(?)な世界に旅立ったのであった。と言うよりも、難しい漢字が多く、いかにも「文学者」といった感じの文章が余り合わなかったのが大きいのだが。

数年前に、ひょんなことから、澁澤龍彦の小説を試してみよう、と思い立ち、遺作となった『高浜親王航海記』を読んだ。これが奇跡のように素晴らしい作品で、改めて澁澤龍彦の世界観と古典教養と見識の高さに眼を開かさたのである。それから短編集『うつろ舟』を読み、今回の『唐草物語』、、、と澁澤龍彦ワールドの奥深さと魅力は尽きることがない。

まさに「ワールド」としか形容できないような、独自の世界観、古典とも小説とも特定できないジャンルの作品である。古今東西、あらゆる国や地域、時代のテクストから、過たずそこにある本質的なエロス、底流に湛えられているエロスを抽出してしまう、その手腕。古典と言うのは、時代の風習や既成観念を長い月日が洗い流して残り続けたもの、だからこそ、そこに変わらない人間の生と性の姿があるのだ、ということが、澁澤龍彦の作品を読んでいると実感できる。はっきり言って、ここまでくると完全に妄想狂に近いのでは、、、と思いながらも、ひょっとしてこの人は実はタイムマシーンを持っていて、古典の裏側にある事情をつぶさに見てきたのではないか、とも思う。

『高浜親王航海記』の解説で、「もし三島由紀夫が、この作品を知っていたら嫉妬で本を伏せたくなったのではないか」という主旨のコメントがあったのだが、さもありなん。澁澤龍彦を例えて言うならば、生真面目な人たちが、何とか細かいものを苦心して積上げて、ちょっとでも高みにのぼって見極めたいと右往左往している傍から、不思議な翼を生やしてやすやすと空高く舞い上がり、「ああ、ちらっと見てきたけどこんなだったよ」と、とんでもないことを報告をしてくれる、そんな作家なのである。

その感性の鋭さは、他者の追随を許さない。勿論、三島由紀夫も唯一無二の文学者だが、彼の中には、理知的なものと耽美的なものとの引き裂かれるような緊張関係がある。そういう三島由紀夫だからこそ、澁澤龍彦の作品に嫉妬を覚えるのではないか、と私も思った。さらに、澁澤龍彦は、ただ感性の人というだけじゃなくて、気味が悪いくらい古典や歴史のことをよく知っている。だからこそ、空想と史実、妄想と現実の境界線が曖昧になり、読む者に心地よいめまいを与えてくれるのだ。最後には「そんな境界線なんて意味が無いのだ」という境地に達するくらい魅力的なワールドである。

今回の『唐草物語』も、日本は勿論、インドや中央アジア、中国など本当に様々な時代と地域の古典を引っ張り出し、不思議に耽美的でエロティックな世界を次々と繰り広げてくれる。耽美的という意味では、『高浜親王航海記』や『うつろ舟』の方が私は好きなのだが、本書は古典を自由な発想で遊ぶ、というのをより軽い感覚で楽しめる秀作。何度読み直しても飽きない魅力があると思う。

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