『コルシア書店の仲間たち』 須賀 敦子


須賀敦子さんを知ったのは、20代後半になってからだった。偶然、なんとはなしに『ヴェネツィアの宿』の文庫版を本屋で買ってみた。しっとりとした美しい文章に、はっとさせられた。私の祖母と同じくらいの年代なのに、大学を卒業すると単身フランスに渡り、「フランスの精神性をどこかうるさく感じて」「精神ではなく、もっと総括的なたましいがあると信じて」イタリアへ渡り、そこで一種の哲学的・社会的運動に参加しながら鉄道員の息子と結婚し、その夫の死後も何年かイタリアに留まった後、日本に帰国して大学で教え・・・といった人生にも興味をもった。『塩一トンの読書』や『ミラノ霧の風景』など片っ端から読んでいった。

どの作品も、一文一語に至るまで素晴らしい、と思うのだが、最も好きなのは、この『コルシア書店の仲間たち』である。須賀敦子さんは、哲学や宗教や文学などについて賢しらしく語ったりすることは絶対にしないので、彼女がミラノの「コルシア書店」で参加していた運動が、具体的にどのようなものなのかは、本書を読んでいるだけではよくわからないのだが、恐らく、キリスト教的共産主義的な、一種のユートピアを目指すような思想だったのではないかと思われる。いずれにせよ、その運動や思想の中身は問題ではなく、それに参加していた頃の自分やその周りの人々との思い出を綴ったエッセイである。若い著者自身がともに熱く思想を語り、時には激しい感情と多くの時間を語り合った仲間との思い出、それが、30年という長い時間を経て、余分なもの、とがったところや曲がったところ、一時的な迷いや感情などをきれいに洗い去って、美しい文章と真実だけが残った、それが『コルシア書店の仲間たち』なのだ。

私が一番好きなのは、この部分。

コルシア・ディ・セルヴィ書店をめぐって、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた。そのことについては、書店をはじめたダヴィデも、彼をとりまいていた仲間たちも、ほぼ同じだったと思う。それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣あわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。
 若い日に思い描いたコルシア・ディ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。

人間の孤独と人生について、こんなに短く的確に、美しくかつ優しく表現した文章を、私はかつて読んだことがない、と思い、涙が出そうになった。

須賀敦子さんの本を読むと、大人になって良かったなあ、としみじみ思えた。私は、特に14歳の頃が、本を山ほど読み、人生やら死やらについて一番考えた時期だったのだが、この頃の方が、残酷で怜悧な頭脳の明晰さ、という点では一番優れていたのではないかな、と思う。余計な人生体験や、感情の曖昧さやしがらみが無い分、物事の真実がもっとはっきりとくっきりと見えていた。その頃に比べると、ある意味では随分頭が濁ったな、と思うときもある。でも、きっと14歳の頃には、須賀敦子さんの文章の重みはきっと理解できなかった。そう思うと、やっぱり大人になってよかったな、と思うのである。

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