書評・小説『鏡の中を数える』 プラープダー・ユン


主人の仕事の関係で、タイ・バンコクに駐在していたことがあり、主人は今でも毎月日本とタイを行ったり来たりしている。そんなこんなで、タイとの因縁は浅からずあるのであるが、文学となると、ずっと昔にトムヤンティの『メナムの残照』を読んだことがあるきりで、タイ文学については全く無知である。そんな中で、Instagramのフォロワーさんに偶然この作家を紹介してもらった。

プラープダー・ユンは1973年生まれ。小説家のほか、グラフィックデザイナー、イラストレーター、映画脚本家など多彩な肩書きをもつアーティストである。親日家で日本との関係も深く、タイ・の日他アジア諸国の共同制作映画で、日本人の浅野忠信主演・タイ人のラッタナルアーン監督『地球で最後のふたり』と『インビジルブル・ウェーブ』の二作品で、脚本を手がけている。2017年には、『現れた男』で初映画監督にもチャレンジするという、多才ぶりである。本作品に収められている短編『存在のあり得た可能性』では、タイで最も権威ある文学賞である東南アジア文学賞(The S.E.A Write Award)を受賞した。

読んでみて不思議な感覚。全然タイ文学という感じがしない。もちろん、舞台は現代のバンコク、登場人物の名前もタイ人だし、タイ語の言葉遊び的な文章も出てきたりして、タイ文学作品には違いない。ただ、読後感が、ちょっと懐かしい感じというか、若い頃の村上春樹や村上龍の作品を読んだみたいで、海外の小説という感じが全然しないのだ。つまり、同年代の日本人作家の作品を読んでいるみたい。それは、国も都市も宗教も違えど、みんなマクドナルドやスタバを気軽に利用して、同じMacやiPhoneを持ち、GoogleやSNSを使っている、あるいは到達点としてそういうライフスタイルやイメージを共有している、グローバル資本主義がもたらす均質性、同質性にも通じている。

ただ、なんとなく、若い頃の村上春樹や村上龍の作品と違うのは、そこに「演出された病的さや虚無感」が無いということだ。プラープダー・ユンが描く登場人物は、実に明るくトリッキーでイカれていたりアブなかったり孤独だったりする。もしかしたら、それがタイ風の「ポストモダン」というテイストなのかもしれない。でも、タイの現代病とか、ポストモダンがどうとか、あんまりそういうことを考えずに、そこが東京でもソウルでもバンコクでもあるいはパリでもニューヨークでもいい、無名の大都市の無名の若者になって読みたい、そういう作品なのである。

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