書評・戯曲『桜の園・三人姉妹』 アントン・チェーホフ


『桜の園』をお得に読む

ただ単に、桜の時期だからという理由だけで、実家の本棚から抜き出してなんとなく再読してみたチェーホフ。

特に有名な『桜の園』は、革命前夜のロシアで没落していく貴族階級の様子を描いたものだ。心優しいけれど、金銭感覚はまるでなし、お金にも男にも甘くてだらしないラネーフスカヤが、唯一手元に残された美しい邸宅と領地「桜の園」を最後には手放さざるをえなくなる一部始終。

ラネーフスカヤの儚いような美しいようなそれでいて滑稽なような哀愁ある姿に誘われて、偶然同じ実家の本棚にあった太宰治の『斜陽』を続けて読んでみたのだけれど、作品の中にチェーホフの言及があって驚いた。かず子の手紙の中に、《M.C(マイ、チェホフのイニシャルではないんです。私は、作家にこいしているのではございません。マイ、チャイルド)》と署名されているのである。調べてみたら、太宰はチェーホフが大好きで、もちろん『斜陽』もチェーホフの『桜の園』を下敷きに書かれたものだと言う。さもありなん。確かに、『桜の園』のラネーフスカヤと『斜陽』の「お母さま」は似ているところがあるけれど、作品の取り扱う主題や印象は随分違う。

晩年の傑作とされている『三人姉妹』は、衰退していく貴族階級を描いたものではないけれど、時代の大きな変わり目に、厳しい現実に立ち向かいうちのめされる若い女性たちの姿を描いている。ある意味で、三人姉妹のそれぞれが夢破れる結末になるのだけれど、長女おーリガの最期の台詞が痛くて美しい。

「ああ、可愛い妹たち、わたしたちの生活は、まだおしまいじゃないわ。生きて行きましょうよ!楽隊の音は、あんなに楽しそうに、あんなに嬉しそうに鳴っている。あれを聞いていると、もう少ししたら、なんのためにわたしたちが生きているのか、なんのために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ。・・・・・それがわかったら、それがわかったならね!」

ロシア文学は、ドストエフスキーとトルストイだけ読んでいたけれど、チェーホフにも共通の特徴があると感じた。

一つは、なんといってもロシア人の饒舌さ。チェーホフのは戯曲だからある程度誇張されるのはしかたないとしても、アメリカやイギリスの戯曲と比べると、不自然なほど一人一人の台詞が長い長い。そこには、気の利いたウィットや皮肉でぴしゃりとやりこめるようなキレの良さが全くない。ドストエフスキーやトルストイの作品を読んでいると、「こんな長い独白をするやつが本当にいたら誰も相手にしないのでは」ってくらい、延々と喋り続けるわけだが、これはきっとお国柄なのだろう、とチェーホフを読んで改めて感じた。

もう一つは、登場人物の多さとメイン主人公の影の薄さ。というか、メインの主人公というのはあまり存在しない感じの作品が多い。これも強烈な個や自我を問うような英仏の文学作品にはない魅力だ。(それがロシア文学作品の冗長さと読みにくさを演出しているのもだと思うが笑)キャラクター色は決して希薄ではないのに、一種の群像劇的なストーリー展開を見せるところも、ロシア文学作品の面白さだと思う。

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