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書評 『カフェの文化史 ボヘミアンの系譜 スフィフトからボブ・ディランまで』 スティーブ・ブラッドショー ②

ヨーロッパからアメリカまで、様々な国、時代の芸術家や文人たち、そして彼らが訪れたカフェの名前など、横溢する文化的知識と固有名詞に埋没してしまいそうだが、タイトルに「カフェの文化史」(Cafe Society)と銘打っている通り、カフェの社会的な側面についても論じているのが、本書の特徴である。世にあまたカフェについての本はあれど(主に欧州の著者によるものだが)、殆どは有名なカフェについてのエピソードを羅列したものである。カフェ文化自体を論じるというのは、捉えどころがなく非常に難しいせいだろう。

著者は、カフェというものを、時にはブルジョワの文化的表現の一面と捉え、そして、ブルジョワ文化への抵抗としての「ボヘミアン」ライフの表現として捉える。ただ、ボヘミアンへの憧憬そのものが、ブルジョワの文化的側面、とも言える。

始まりのロンドンのコーヒーハウスから、カフェは一種の「表現の場」であり、そこに出入りすること自体が「スタイル」を保証する、という性格を帯びていた。

コーヒー店で夜を過ごすことの多かったポウプ、ドライデンといった古典主義者たちにとって、機智という言葉は彼らが宮廷生活の衰微後しないそうになっていたある種の社交上のたしなみとでもいったものをも意味していたー作品を自由に売る販路もなければ、自分たちの代りにそれをやってくれる職業的な批評家集団もいない時代に自分の職業的地位を獲得する一つの方策だったのである。

イギリスでは、《作家たちは機智を武器に友人や競争相手をやり込めようとし》、《文学的成功と機智に富んだ会話といったものの結びつき》が、新たな価値規範となって《文学と品位の融合》が起こり、ボヘミアン的カフェ文化は衰退していく。

フランス革命の火付け役として一役買ったパリのカフェも、革命後に王政が復活すると、資本主義とブルジョワへの「反抗」というよりも「逃避」としての性格が顕著に表れてくる。

また、芸術のための芸術が、ブルジョワジーの権勢に挑むというよりもそれを反映する局面は他にもあった。至上の形而上的芸術は、金融資本の勝利の中にその姿を映していたのだ。フランスに銀行家が増えれば増えるほど、芸術家の中にボヘミアンの姿が増す、というふうに見えるのもしばしばだった。芸術が、天啓を受けた一握りのロマン派たちによってのみ生み出されるものなら、これは分業への傾向と調和をなしていた。(略)ブルジョワジーを芸術のための芸術に惹きつけていたこの密かな吸引力は非常に強かったため、義務はなくて金だけはあるその若き子弟たちは、大通りに面した優雅なカフェで、ゴーチェの規範にしたがって生きることで時間を費やしていた。

かくして、ボヘミアンというのは一種のスタイルとなり、それを表現するためのカフェという場は、主役を次々と乗り換えて回転し続ける。シャルル・ボードレール、マネやドガといった印象派たち、《カルティエ・ラタンやモンマルトルのカフェに集まっていた詩人たちの存在がなかったら、今もって高踏派の小詩人としか見なされていなかったかもしれない》ポール・ヴェルレーヌ、そして《最後のボヘミアン》モディリアニ。

19世紀末に束の間ロンドンで復活したカフェ・ロイヤルもまた、《一種の文芸市場のようになって》、《文学の公開討論の場でもあり、批評のための研究会の場ともなって》いて、《オスカー一派、デカダンスの同類、道徳の破壊活動分子たるイギリスのボヘミアを代表していた》。

同じ頃、ウィーンのラントマンのようなカフェは、フロイトにとって《彼の見解を伝えるのにかっこうの公開討論の場》であった。

カフェは、芸術家たちに創作のインスピレーションを与え、創作活動をする場となっただけではない。(むしろ、その役割はかなり小さかったであろう、と筆者は考えているようだ)ここでは、ボヘミアンとしてのスタイルを誇示することが重要なのだ。その表現と発表の場としてカフェがあるのである。この着眼点は非常に面白い。

私自身、サロン、クラブ、カフェなど、「編集的文化が起こる場」というものに興味を持って、その種の文献を読み漁っているうちに、一般的に考えられているように、こういう場での交流それ自体が、芸術家のオリジナリティやインスピレーションの元になった、というだけではないのではないか、という思いが強くなった。そういう側面が全く無いとは言わないが、活性化したサロンやクラブやカフェというものは、往々にしてそれに参加し集うこと自体が目的となっていたりする。私が想像したのは、そこにある種の「パトロンを見つける」という目的、経済的目的があるのではないか、ということだった。本書でも、孤高のボヘミアン、モディリアニがカフェラパンに通っている様子をこう語っている。

モデル代がただですみ、しかも自分の肖像画を買ってくれるかもしれないカフェでスケッチする習慣はすでについていた。

しかし、ただ単に直接的なパトロンを探す、という以上のものがカフェにはあった。貴族、そしてブルジョワという、分かりやすい「パトロン」が消えていく中で、「大衆」というつかみどころのないパトロンであると同時に消費者であるもの、へアピールするには、カフェという場を使って「スタイル」を提示する、という方法が極めて効果的だったのかもしれない。だからこそ、刺激的な芸術家どうしの交流で、創作のひらめきを掴むとか、直接的なパトロンを探す、という以上に、その場に出入りする、ということ自体が重要だったのである。かくして、人々はボヘミアン的理想郷を追い求め、カフェは次なるアーティストの生贄を探し、その場所を移していく。一つの場としてアピールが完成されたカフェは、ただのスポットであり、理想郷ではない。

このあたりは、もう少し自分なりに考察を深めたいところである。難解で衒学的な文章を我慢して読んだかいもあった。再読する元気が出てくるかは微妙なところだが、自分にもう少し教養がついて、いちいちWikipediaさんにお伺いをたてなくてもよいほど読みこなせるようになったら、もう一度読み返してみたい本だ。


書評 『カフェの文化史 ボヘミアンの系譜 スフィフトからボブ・ディランまで』 スティーブ・ブラッドショー ①

1984年出版の古い本だが、タイトルに惹かれて読んでみた。内容はそれなりに面白いのだが、しかし、読みにくい。イギリスのフリーライターが書いたものだそうだが、いかにも知的エリートイギリス人らしく、持って回ったニヒルな言い方の上に、読者サイドに当然のように教養や知識を要求する前提となっている。冒頭のカフェの考察からこうだ。

もう一つ問題となるのは、一軒のカフェを構築しているものは厳密には何だろう、ということであった。アルゴンキンの円卓(1920年代にニューヨークのアルゴンキン・ホテルにつくられた文学クラブ)がカフェでないことは確かだが、モンマルトルのカフェ・コンセールやトゥールズ・ロートレックが出入りしたいかがわしい店ともなると、一口では言えない入り混じった性格を持っている。(略)この本に出てくるさまざまな芸術家たちのグループはなるほど重要であろうが、彼らがともに抱いていたカフェ生活への愛着もクラレットの嗜好以上の意味は持つまい、という議論も当然なされよう。また、印象主義は穴倉(ビア・セラー)のビール店で創始されたかもしれないし、サヴォイ・ホテルに連れて行かれたとしたら、ヴェルレーヌは一層哀れっぽく見えたろう、ということもあり得る。その一方で、カフェだけが、ヨーロッパに紹介されて以来、知的な会合の場として明確な伝統を保ってきたことも事実である。決疑論の学者なら、クールベからアレースター・クロウリーに至るまで、カフェに出かけることによって違いを摸倣し合ってきた人々の伝統をたどるかもしれない。もっと言えば、この本で語られている重要なできごとの数々が、一匹の山羊によって始まったと考えるのも目新しくておもしろかろう。

なんのこっちゃい、という文章である。前提知識として、ロートレックやヴェルレーヌやクールベがどんな人物なのかはもちろん、サヴォイ・ホテル(ロンドン最初の最高級ホテル)やクラレット(イギリスで飲まれたボルドーワイン)やアレースター・クロウリー(19世紀末イギリスのオカルティスト)などといったマニアックなものまで要求される。(ちなみに、最後の「一匹の山羊」は、次章で言及される、コーヒーがアラビアの山羊飼いによって偶然発見されたという逸話を暗示している・・・)これを訳した海野弘先生のような西欧文化を知悉した方なら良いが、極東の片隅で一主婦が読むにはかなりツライ文章である。とにかくウィキペディアさんにお尋ねする回数が多い多い。その上で、やたらと二重否定やら隠喩やらを挟み込んで婉曲的表現が多用されているので、途中、何度も「結局、何が言いたいねん!」と本を投げ出したくなった。

とまあ、前置きの愚痴というか、「私、こんな難しい本読破したのエライでしょ」的アピールはこれくらいにして、内容に入ろう。副題にもある通り、スフィフトらが集った18世紀初めロンドンのコーヒーハウスから、ボブ・ディランが歌を紡いだ今世紀ニューヨーク・ヴィレッジのカフェに至るまで、主にそこに通った芸術家たちを軸に語っている。

ロンドンでのコーヒーハウスには、スフィフトやポープらの文筆家が集い、リチャード・スティールの雑誌「タトラー」や「ガーディアン」、ジョウゼフ・アディスンの編集する「スペクテイター」など、優れたジャーナリズムを生み出した。これらがやがて、クラブ文化へと衰退していくあたりは、小林章夫『コーヒー・ハウス』に詳しい。

賭博の巣として、あるいはまた紳士のための優雅な社交場として、コーヒー店は徐々に特殊化していった。(略)この世紀の半ばまでには、アグリー・フェイス、踵までくるナイトガウンを着るレイジー・クラブ、サイレントクラブを初め、数えきれないほどのクラブが乱立し、コーヒー店を徐々に閉め出していったのだった。(略)クラブの隆盛は、この土地本来の潜在的な島国根性ばかりではなく、ブルジョワ社会において新しい地位の形態が必要とされてきたことを反映しているのだ。

ロンドンで衰退したカフェ文化は、革命前夜のフランス・パリで花開く。パリには1788年までに1200軒を超えるカフェがあったそうだが、中でも有名な「プロコップ」には、ヴォルテールやモリエールがやディドロらが足繁く通った。また、オルレアン公によって開かれた、パレ・ロワイヤルのカフェ群も人気であったと言う。《パレ・ロワイヤルのカフェは、フランス革命の公開討論の場であった》とある通り、この時期のカフェでの活発な議論と時にエスカレートした民衆の示威行動が、フランス革命の温床となったことは、寺田元一『編集知の世紀』でも触れられている。

革命後、政治色の抜けたカフェは、いよいよボヘミアン芸術家たちの溜まり場として黄金期を迎える。詩人のヴェルレーヌが、その筆頭だ。18世紀後半になると、印象派達の「カフェ・ゲルボワ」「ヌーヴェル・アテネ」には、マネ、ドガ、ルノワール、ピサロやゴーギャン、ゴッホらだけでなく、ゾラやマラルメなどの姿も見られた。印象派グループが解体するにつれ、カフェ文化の中心はセーヌ川左岸のモンマルトルに移っていき、ピカソやモディリアニといった外国人が「ラパン」や「クロズリー・デ・リラ」や「ロトンド」などを舞台に新たなボヘミアンの主人公となる。これらのカフェは、パリに住む芸術家だけでなく、トルストイやトロツキーなどの外国人がパリ滞在時に訪れる国際色強いカフェとなっていくが、さらに、第一次世界大戦を挟み、新たな「外国人=アメリカ人」達の独断場となるのである。

左岸のカフェは、フランス社会からの逃亡者たちにとっても、常に避難所となってきた。それらが外国からやって来た若い芸術家たちに一時代まるまる侵略されてしまったことはかつてなかった。

ヘミングウェイやフィツジェラルドといった「ロスト・ジェネレーション」たちの登場だ。ヘミングウェイの『移動祝祭日』には、「クロズリー・デ・リラ」の名前が何度も登場し、「リラでのエヴァン・シップマン」という章まである。

ロトンドは、ラスパイユの角のカフェ群のなかでは今なお一番大きく、最もコスモポリタン的であった。「右岸でタクシーを拾ってモンパルナスのどこのカフェの名を告げても、必ずロトンドに連れていかれる・・・」『日はまた昇る』The Sun Also Rises の中で、ジェイク・バーンズがこんなことを言っている。

「モンパルナスは、アメリカ四十九番目の州とみなされてもおかしくなかった」とシスリー・ハドルストンは書いている。(略)

アメリカから渡ってきたボヘミアン芸術家があるいは交流し、あるいはそこで創作活動をし、パリのカフェ文化は最後にして最高の盛り上がりを見せる。しかし、それすらも、次第にただのパフォーマンスとなっていく。

10年ばかりそういう愉快な晩を過ごしたあとで、シスリー・ハドルストンは自分なりの判断を下す、「カフェはいくつかの点で悪影響を及ぼしてきたかもしれない。なぜならあまりに多くの作家たちがー画家たちも同じだがーモンパルナスやモンマルトルのカフェで一日の長い時間、そして夜すらも過ごすことで満足しているからだ。彼らは怠惰な習慣に陥っている。創作するのでなく話すことで満足しているのだ。彼らは朝から晩まで議論している。そしてその議論は何の実も結ばない。

そして、世界恐慌が訪れると、《アメリカ人たちはあっという間にカフェを去った》。第二次世界大戦の嵐が吹き荒れ、復興の必要の無い新しい街、アメリカ・ニューヨークで、ボヘミアン芸術家による最後のカフェ文化の残照が見える。この頃になると、もはやボヘミアンは「ヒップ」という言葉にとって代わられる。前述したように、この本は1980年代に書かれた古いものだが、最後のボヘミアン芸術家としてシンガーとしてだけではなく詩人としてのボブ・ディランにスポットを当てているのは、世間をあっと驚かせた20年後の彼の「ノーベル文学賞受賞」の事実を照らし合わせると、非常に興味深い。

(ヴィレッジのカフェ「コモンズ」で)簡単なメモを走り書きしグラスを干すと、ディランは帰って『風に吹かれて』Blowin’in the Wind を作り始めたのだった。この曲は、市民権運動の賛歌(アンテム)となり、ディランをコーヒーハウスの外の世界でも有名にした。シェルトンはこう結ぶ。「彼はどこにいても躍り出ただろう。だが、カフェ社会という布石が決定的だった。彼は現に怒っているあらゆることを総合し、強調し、それらを通して稲妻を放ち、玉虫色に光らせた。

大まかな流れを説明したが、本文では、ここに、19世紀末ロンドン、オスカー・ワイルドら頽廃的芸術家達が跋扈した「カフェ・ロイヤル」や、やはりハプスブルク帝国治下ウィーンの「カフェ・グリーンシュダイドル」などの挿話も挟まっている。特に、ウィーンのカフェは少し独特で、格式張ったマナーや内装をしていたこと、図書室や文化クラブを兼ねたような場所であったこと、シュニッツラー、キルケゴール、ホフマンスタール、ツヴァイク、カール・クラウスら文学者や哲学者の他に、フロイトやアルフレッド・アドラー、エルンスト・マッハー、ブルックナーにマーラー、シェーンベルクら多彩な人物達が集まった様子は、クラウス・ティーレ=ドールマン『ヨーロッパのカフェ』にも描かれている。

政治的生活というものがなかったので、ウィーンのブルジョワジーーはその精力を芸術に注ぐ傾向にあった。貴族たちはもはや芸術の積極的な庇護者とはいえなかったし、(略)ブルジョワには対抗する相手がほとんどいなかった。何にも増して彼らは、その演劇的な性質が自分たちの情況を反映しているかのように見える芸術や娯楽の形態を助成した。(略)暗黙の内にも至るところに姿を現わす性の妄想も、その執拗さの一部はこうした政治的フラストレイションから発しているようであった。ワルツの中に、ウィーン人はエロティックでかるまた現実から目をそむけさせてくれる芸術形態を見出していたー独特の友情と敵意の儀式、流動的な知的同盟を形づくろうとくっつけられた大理石のテーブル、煙の立ちこめた部屋を隔てて射かけるまなざしによって成立したり破られたりするロマンティックな関係・・・・こうしたものを含むウィーンのカフェ社会の性格もまた、このエロティシズムと演劇という感覚によって説明できるのだ。

シュテファン・ツヴァイクが書いているように、ウィーンのコーヒー店は「入会金がコーヒー一杯の料金ですむ民主的なクラブのようなものであった」


書評 『バロックの光と闇』 高階 秀爾 ②

バロックを反「古典主義的なもの」と定義し、その対比から特質を捉えることは《便利》だが、一方で、ヴェルフリンのような概念化は《うっかりすると図式化する危険性がある》。実際のバロックは、反古典的様式という概念には収まりきらない、豊穣で複雑なものをもっているのである。単純化した説明の後で、高階先生は、バロックのもつ「写実性」「光」「装飾性」「浮遊性とダイナミズム」「都市空間と建築」「演劇」「音楽」など様々な観点から、その奥深さを分析している。

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書評 『バロックの光と闇』 高階 秀爾 ①

先日、名古屋市美術館の『カラヴァッジョ展』に行き、ミュージアムショップで購入した一冊。小学館版『バッハ全集』全15巻に、「バロックの美術」として掲載した文章をまとめたものだが、タイトルは高階先生の代表的名著『ルネッサンスの光と闇』になぞらえたものだろう。

『ルネッサンスの光と闇』のような大著というのではないが、連載式でも毎回違った観点からバロック美術を扱っており、さすがバランスのとれたわかりやすい解説書になっている。わかりやすく単純化した「バロックの定義」と、古典主義、マニエリスム、写実主義、ロココ美術、ロマン主義とも深く関わりをもつ多義的で複雑な「バロックの奥深さ」の両方を、読者に提示してくれているのだ。

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レビュー・経済書 『貧乏人の経済学 もう一度貧困問題を根っこから考える』 A・V・バナジー&E・デュフロ ③

第二部の第六章で扱うお題は「リスク分散と保険」について。貧乏な人はの生活は、そうでない人達よりもずっと不確実性が高く、リスク耐性が低いということが検証される。また、そういう常に高いリスクに晒され自分の生活や人生がコントロール不能であるという感覚を持ち続けることが、精神的にも悪影響を及ぼすことも指摘されている。

リスクに直面すると(所得リスクだけでなく、死や病気のリスクも含みます)、人は不安になり、不安になると緊張して憂鬱になります。鬱の症状は貧乏人のあいだにはずっとたくさん見られます。緊張していると集中できず、これは生産性を下げます。

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