ネットワーク一覧

タンサン夫人

クロディーヌ=アレクサンドリーヌ・ゲラン・ド・タンサン(1682〜1749)は、18世紀フランスの最も有名なサロンを開いた。ダランベールの生みの母としても有名だが、若い頃に砲兵隊将校デトゥシとの短い情事で赤子を授かった彼女は、生後まもなくその子をパリのサン・ジャン・ル・ロン教会の階段に置き去りにした。 続きを読む


書評 『十七世紀フランスのサロン サロン文化を彩る七人の女主人公たち』 川田 靖子

だいぶ古い本だが、『クラブとサロン』でフランスのサロンについての章を執筆していた川田靖子さんの著書。一般に、フランスサロンの全盛期は百科全書派などの活動を支えた18世紀と言われているが、本書は、その最盛期を準備した17世紀のサロン文化について、ランブイエ侯爵夫人、スキュデリー嬢、ニノンとマリオン、セヴェニエ夫人とラファイエット夫人といった女主人を元に語っている。

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『クラブとサロン なぜ人びとは集うのか』 松岡 正剛 ほか

私が個人的に興味を持っている「編集的文化が発生する場」としてのクラブ、サロン、カフェ論に一番イメージの近い本。「クラブとサロン」を切り口に、古今東西様々な分野の専門家のエッセイをまとめたものだ。 続きを読む


書評『ベルリンのカフェ 黄金の1920年代』 ユルゲン・シェベラ ②

読みながらドイツ文化についてはまだまだ自分の勉強不足を痛感した本書だが、「編集的文化が発生する場」を考える上では、参考になることが非常に多かった。

どんな場であれば、より編集的文化が発生しやすいのか、それを事前に予測するのは難しい。それは活気と賑わいがありかつ「編集的文化が発生する」カフェを人為的に作り出すのが難しいのと同じである。

豪華な内装?居心地の良さ?コストパフォーマンスの良い食事?ベルリンの伝説的なカフェ「ロマーニッシェス・カフェ」についての記述は、それらのある種健全な合理的ビジネス的観点を真っ向から否定するものである。

ギュンター・ビルケンフェルトは、かつてこのカフェをつぎのように描いた。

「店そのものは後期ヴィルヘルム時代のロマネスク趣味からとられたその名前とおなじように、生彩を欠き、あたり一面冷やかな雰囲気を漂わせていた。(略)建築様式が不愉快このうえないもので、しかも料理がまずいという点では、プロイセンのあらゆる待合室となんら変わるところはなかった。(略)そしてこれが、スレーフォークト、オルリーク、モップが毎日コーヒーを飲んだ店なのであった!」

ロマーニッシェス・カフェの食事はまともに口にできるしろものではなかったが、どっちみち、ここで食事をとろうというのはフリの客であろうと考えられていた。というのは、フィーリング氏がいうように、「食事はいちげんの客に供するものでしかない。常連はどこか別の場所で食事をとる。すくなくとも、お金をもっている常連はそうである。」

これが、さまざまな芸術家たちで賑わい、フリードリヒ・ホレンダーのかバレットにも取り上げられた伝説のカフェの内実なのである。

そんな資本主義的観点から言えばサイテーカフェにどうして人が集まるのか?一つの鍵は、まさにその資本主義的観点にあると思う。つまり、そこにある種の経済的メリットがあるということだ。

著者のシェベラは、序章でこう述べている。

芸術と精神的生産のための伝統的な創造・討論・取引の場(劇場、アトリエ、画廊、出版社、編集部)と並んで、いまや、それ以上の意義を獲得していったのは芸術家カフェだった。彼らは、新しいプロジェクトについて議論し、そしてなによりも「売りこむ」ために、ここで落ちあった。

これは、カフェだけでなく、サロンやクラブにおいても重要なファクターであると思う。自由な議論や交流の場という観点ももちろん必要なのだが、人々を集める求心力として、「パトロンがいる」ことや「具体的な仕事の売り込み先がある」ことが重要である、という点は、この種の場所をめぐる議論の中でもっとスポットを浴びて良い、と私は思う。

たとえば、「誇大妄想狂カフェ」についての記述

(給仕長の)ハーン氏は、客たちから頼りにされる人物であると同時に客のツケ保証人でもあり、また質屋営業者でもあった。幾人もの支払い能力のあるパトロンや芸術後援者と密約を結んでおり、そのため客の知らないうちに、勘定が済んでいる場合もしばしばあった。

あるいは「レストラン・シュリヒター」についての記述

マックス・シュリヒターはこのレストランを、いつでも弟の作品を販売できるようなギャラリーとして利用していた。(略)ちなみにこういったことは、当時のベルリンではなにも例外なことではなかった。多くの若い芸術家たちは展示場や販売のための場所として、レストランやカフェを利用していたからだ。

もう一つ、これはまだあまり掘り下げて考えられてはいないのだが、活気あるサロンやクラブ、カフェなどの共通点として挙げられるものがある。それは、常連たちの連帯感やクローズド感を醸成するための仕掛け、身内だけのルールやゲーム、言葉遊び、といったものだ。

「誇大妄想狂カフェ」では、仲間内でさまざまなあだ名で呼びあったことが、常連エルゼ・ラスカー=シューラーによって記されているし、(P28)、素描画家ジョン・ヘクスターによれば、常連たちは夜な夜な韻文で話したり、頭韻転換するなどの言葉遊びに興じ、それがまたこの有名カフェの風物詩ともなっていた。(P34)

ハイデン=リンシュ『ヨーロッパのサロン』の記事でも少し触れたが、言葉遊びやゲームというのは、東西のサロン文化の中では重要なファクターである。田中優子さんの『江戸の想像力』では、日本式サロンとも言うべき「連」と俳諧のネットワークについての非常に興味深い記述がある。「編集的文化が発生する場」に重要なファクターとして、また別の機会に考察してみたいテーマである。


書評 『ベルリンのカフェ 黄金の1920年代』 ユルゲン・シェベラ ①

いつもながら、サロン・クラブ・カフェなど「編集的文化が発生する場」を研究する一環として。

1920年代のベルリンというのは特別な意味がある。以前読んだ、NTT出版の共著『クラブとサロン』でも、長澤均さんが「狂乱の夜、歓楽の夜 サロン都市ベルリン」と題する章を割いて論じており、気になっていた。

《ベルリン、それは狂乱と歓楽の首都であり、さまざまな大衆文化の発行の地であった。1920年代に世界都市としてヨーロッパの文化センターともなった(略)この時代のベルリンを劇作家カール・ツックマイヤーはつぎのように評した。「人々はベルリンについて論じあっていた。(略)ベルリンを征服することは、すなわち世界を征服することであった。」たしかにベルリンそのものがあらゆる欲望の終着駅であった。ここには「夜の生活(ナハト・レーベン)」があり、ヴァリエテ、レヴューといったあらゆる見世物があり、芸術的かバレットがあった。アヴァンギャルドと政治がその沸点を見出し、ロシア亡命者と遊民が混淆文化を形成し、モルヒネとコカインと狂乱と狂気と享楽をつくりだしていた。そして、そのすべてが、“大衆”の出現、すなわち“新中間層=ホワイト・カラー“の出現をまって成立したものであった。大衆の欲望・・・新時代の文化・風俗はよかれ悪しかれ、この大衆の欲望にその基軸をもたざるをえなかったのである。》『クラブとサロン』より

ドールマンの著作『ヨーロッパのカフェ文化』でも、有名な「誇大妄想狂カフェ(カフェ・グレーセンヴァーン)」や「ロマーニッシェス・カフェ」など、ヴァイマル共和国時代のベルリンの賑わいについて触れられている。

私自身が、かろうじてトーマス・マンとヘルマン・ヘッセとゲーテを少しだけ読んだことがあるくらいで、ドイツ文学や文化についての素養が全くないので、本書の中で触れられるドイツ文化人達の名前にいまいちピンとこないのがもどかしいばかりなのだが・・・ベルトレト・ブレヒトの戯曲『三文オペラ』はもちろん、ノーベル賞作家のゲールハルト・ハウプトマン、エーリヒ・ケストナーやレマルクくらいはせめて読んでおかなければ・・・と痛感した次第。カフェやレストランなどについての本なので、ドイツ文化そのものについての詳細な言及は少ないのだが、『三文オペラ』を生んだ世紀の店「レストラン・シュリヒター」の章で、ベルトレト・ブレヒトとヴァルター・ベンヤミンの交流について触れられた文章は興味深いので残しておく。ベンヤミンについては『複製技術時代の芸術』を読んだ後未消化のまま残っているので、また改めて論じてみたい。

《ベンヤミンはブレヒトと一緒につくりあげようとしていた新しい美学構想について書いている。(略)ここで問題になっているのは、芸術を社会に関与する契機としてとらえようとする、芸術の機能の新たな定義なのである。芸術生産を、そして同時にまた芸術生産の社会的基礎をも変化させるような契機が、ここでは問題となっているのだ。

ワイマル共和国では、このような革命的・唯物論的美学はほとんど影響力をもてなかった。しかし、この美学は例の20年代の生産的な遺産である構想ーそれらは遠く現代にまでその影響を及ぼすのだがーのうちのひとつなのである。》