日本のサロン文化を調べていくうちに、江戸の町民文化のネットワークの特殊性に興味を持った。そんな中で、蔦屋重三郎のことを調べているうちに、彼のその重要なネットワークは、吉原という場所で培われたことに気づく。『蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』で、著者の松本寛は吉原という場所についてこう述べている。
歌舞伎と吉原は、儒教主義を道徳律とする当時においては、あくまで社会の必要悪として蔑視された特殊世界だった。しかし、表向きの評価とは別に、現実には子の二大“悪所”こそが、江戸町民文化を生み出す温床となっており、さまざまな知識人がここに出入りし、芝居と遊里は文化人の社交場として大いに賑わった。この有様は、丁度二十世紀初頭にロートレックなどの芸術家を育てあげた、パリの歓楽街モンマルトルの光景を連想させはしないだろうか。
『蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』 松木 寛
それで、お馴染み田中優子先生が、芸者の変遷について語っているという本書に興味を持った。本書では、江戸の遊廓は《王朝の文化サロンの遠い反映》であり、その特殊なサロン文化が吉原→深川→柳橋と変遷していく様子が語られている。遊廓にもちろん、「色」の要素は欠かせないし、それが第一義ではあるが、同時に特殊な社交の場であった、と著者は言う。
それゆえ、江戸が政治的安定を経て、江戸独自の文化が成立して行く過程で、吉原遊郭がその社交の場としての役割を担ったとしても不思議ではない。
吉原が特別であって、そこから文化が生まれたかのような言説が多い。しかしそれは転倒した味方ではあるまいか。どこかにサロンは形成されるのであって、江戸の一時期、それがたまたま吉原であり、そこが社交の中心となったに過ぎない。また吉原を題材とした洒落本や浮世絵が出たのは、吉原が繁栄してそれらの作品をスポンサーライズし得る資力があって、それらを宣伝材料として活用できたということであり、それらの宣伝材料が、後世から見て芸術的価値を持っていたということだ。
ここには、サロン文化の重要な要素が二つ隠されていると思う。一つは、この場所がもちろん一義的には色の場であったが為に、名目的には公的な身分や階級差がリセットされる、隠れ家的場所だった、ということだ。これは、西欧のサロンやクラブ文化の発達過程を見ても明らかである。当たり前だが、自由闊達な交流をもたらす場は、公の仕事やしがらみから解放されている必要があるのだ。
しかし、ただ全く損得勘定の働かない自由な場であればいいと言うのではない。上記の引用で《それらの作品をスポンサーライズし得る資力》と著者が述べているように、そこには微妙に金やパトロンの存在が見え隠れする。この二つ目の点は、サロンやクラブ、カフェなどの文化史を語る上で、まだまだ掘り下げが足りていない部分だと、個人的に考えている。これは、また別のところで考察したい。
もう一つ、サロン文化を考える時に興味深いのは、ネットワークは只広ければ良いという訳ではない、という点である。そこには、絶妙なクローズドで内輪の感覚、というものが必要なのである。そして、そういう内輪的な感覚を共有する方法として、そのネットワークでしか通用しないルール、儀礼的な要素が出てくる。
本書でも、遊廓における、現代の私たちからしたらほとんど理解できないような、奇怪なルールについて説明している。詳しくはここでは取り上げないが、男たちが大枚はたいて《粋で意気》と思われるために、時にどれほどの《痩せ我慢》を強いられたことか、現代の私たちが読んでいると、ほとんど意味不明である。このルールの根底にある価値観を理解(できなくても想像)しないと、江戸遊廓の文化もまた全く理解の範疇を超えたものになってしまう。
社交が成り立つためには、暗黙のルールがある。それは、ルールであり、マナーであり、日本式にいえば作法である。そして、社交社会においては、マナーがモラルに優先するのだ。マナーの洗練こそが、そこでの唯一の価値基準であるといってよい。あたかも芸能の世界では、芸が最優先されるのに似ている。
そして、そのような目に見えないルールを守り続ける意志と矜持とが必要である。そのルールを破る人物は、直ちにそこから排除される。そして、そこでのコミュニケーションの手段というか、人々を結びつけるものといえば、それは芸と色との二つである。そして眼につかぬように、注意深く隠蔽されているのが、金だ。
最後に、江戸時代後期から明治初期における芸者の取り扱い、というものに触れておきたい。芸者と遊女は異なるものと言えど、芸者が活躍した場所はやはりまず何よりも「色」の場所であって、《芸者は、本来芸も売り、色も売りといったものだ》《江戸の遊女や芸者については・・・共に芸も売り、色も売ったのだ》と、著者は繰り返し述べている。芸者は看板としては芸を売るものだけれど、ここでは芸と色は不可分なものであった。興味深いのは、そういう前提でありながら、芸者は、この時代の女性にとって一種特別な職業であり、憧れであった、という点である。
十八世紀前半になると、度重なる禁止令ゆえ、むしろふつうのお嬢さんたちが三味線や浄瑠璃を習い、芸者を職業とし、武家の宴会に呼ばれて行った様子が見える。
女芸者と云ふ者殊の外時花(はや)りて、下町山の手いづくと差別なく、少しみめよき娘は皆芸者にしたてたり、三味線とても少し計り覚えたる計にて、琴引くは稀なり。只淫楽の友とするのみなり。
『あまの焼藻の記』
著者もこの引用の後、《ちょっときれいだとみんな芸者になってしまう、などとは、すごい状況ではないか》と述べているが、確かに、ここには、色を売ることへのモラル的な抵抗感を超越した、現代とはかなり異なる価値尺度が存在している。多分、当時の庶民にとっては、芸者になるというのは、現代で言えば「大手企業の花形OL」ぐらいの感じだったのではないだろうか。だとしたら、芸者がファッションリーダーであったことも納得がいく。
著者は、祇園芸者や京の舞妓が特別視されていった過程にも触れ、それには《祇園が応援した勤王派が、天下を取った》といった背景も関係しているとしている。そして、明治以降、《政界や実業界と結びつき、文字どおり芸者としての地位を築いた》のであると言う。
明治維新による没落士族の娘などがかなりの数芸者に転身した。こうした素人娘の参入が、芸者をして社会の表舞台へと進出して活躍することになった原動力であったことは、否定できないだろう。明治時代の芸者の活躍とそれによる花街の活況は、暉峻のいうように、ある意味で敗者の復活の側面も有していたことは否定できないだろう。
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