カポーティは、『ティファニーで朝食を』が大好きなので、『遠い声 遠い部屋』などを読んでみたのだが、『ティファニーで朝食を』以外は、正直いまいちピンとこなかった。今回、短篇集は初めて読んだのだが、これはなかなか面白かった。
どの短編も、孤独と狂気と病(精神の)の気配がする。「ジョーンズ氏」や「窓辺の灯」など、超ショートストーリーもあり、短編としての切れ味の良さはあるのだが、でも、どこか後味が悪く、重たい感じが残る。舞台はスペインやシチリアなどの南欧だったり、ブルックリンだったり、南部だったりするが、ショートストーリーの中に、その土地の空気感がよく出ていている。その土地々々の雰囲気を醸成しながら、底辺にはずっと共通した暗さと湿っぽさが流れている、そんな感じ。
カポーティの文章は、その映像、音、空気、湿度、光・・・などを思い浮かべながら、読んでいく楽しさがある。じっと集中して、丁寧に読むと、引き込まれていくような文章だ。
ヴィンセントは待ちに待った。四面から窓が夢の扉のように見下ろし、四階上ではどこかの家の洗濯物が物干しの紐にはためいていた。沈みかけの月は夕暮れ時の月のようにふやけた銀貨に見え、夜の闇を奪われた空は灰色に塗られている。日の出前の風がはぜの木の葉末をゆさぶり、薄れてゆく光の中に庭は形をむすび、もろもろの形は位置を与えられ、屋根の上からは鳩の咽喉にかかった朝のつぶやきがこぼれてきた。明かりがつく。また一つ。
一方で、この本の訳者あとがきでは、こんなことが書かれていた。
カポーティの文体を、「アイスティーのグラスがたてる澄んだ音にも似て、心持ち甘く、透き通って冷ややか」とある批評家は表現した(タイム誌1987年9月7日号)。こわれやすいカットグラスのような硬質の文章を、母音が多く暖かみとふくらみを感じさせる日本語に訳すのは、かなりな困難を伴う・・
確かに、訳者の細心の努力にも関わらず、日本語の訳文では、そのような軽やかでかつ透明感のある硬質な文体は、中々伝わってこない。恐らく『遠い声 遠い部屋』などを読んでぴんとこなかったのも、そこにも問題があるのだと思う。一歩間違うと、原文の透明な冷たい感じが損なわれて、日本語訳が、無味乾燥でまわりくどいような文章に感じられてしまうのだ。
いつか《アイスティーのグラスがたてる澄んだ音》を感じられるような、カポーティのオリジナル文章を読んでみたい、と思っている。
コメント