ラテンアメリカ文学の大御所、マリオ・バルガス=リョサの長編。主人公は、有名なポール・ゴーギャンと、その祖母で《スカートをはいた扇動者》と呼ばれた社会活動家のフローラ・トリスタン。この二人のそれぞれの「時代への反逆」そして「ユートピアの追求」の物語が、交互に綴られていく。
『楽園への道』は、その名の通り、ゴーギャンとフローラにとっての「楽園」を巡る物語である。ゴーギャンは、自らのブルジョワ的地位やその背景にある西欧文明に反旗を翻し、原始の芸術と信仰と人間の姿を求めて遠いタヒチに渡る。フローラは、男に虐げられている女性と資本家に搾取される労働者を解放を目指し、現行のや結婚制度や宗教、資本主義社会や国家による戦争を否定して、フランスじゅうを飛び回る。どちらも、「ユートピア」を求めるがために、時代の反逆児となり、貧困や病や周囲の無理解や差別などに苦しみながら、志半ばで死に行くまでの様子が描かれている。
ゴーギャンとフローラは同じユートピアを求める時代の反逆児でありながら、求めるユートピアの姿などはかなり対照的だ。ゴーギャンにとってのユートピアは、芸術的・精神的な意味でのユートピアで、原始の芸術と信仰と人間の姿を求めて遠いタヒチに渡り、刺青やら食人文化やら、年齢や性別に囚われないフリーセックスやらが残っている世界を意味する。一方、フローラにとってのユートピアは、労働者の団結や組合制度などを通じて、性差別や階級などの無い公平な社会である。ゴーギャンにとっては、セックスはユートピアにとって欠かせない要素(西欧文明にあるセックスの在り方とは異なっていたとしても)だったが、フローラのユートピアではセックスは否定されるべきものだった。
ゴーギャンとフローラは、祖母と孫、という関係ながら、現実には、一度もその時間は交わることはない。フローラはゴーギャンが生まれる前に亡くなっており、二人を繋ぐ娘(ゴーギャンの母)との関係も希薄になっていたからだ。それでも、まるで反逆児であることをDNAで受け継いだかのような祖母と孫の運命の数奇さ・・・そして、もう一つの彼らを繋ぐ糸が「ペルー」である。フローラの父方の実家がある関係で、フローラは活動を始める前の若き頃にペルーに渡って人生の転機を迎え、ゴーギャンは幼少時代の数年をペルーで過ごしているのである。
「私とフローラとゴーギャンの接点はペルーである。二人がペルーに行っていなかったら、関心を抱かなかったことは明白である」と、作者は述べている。この作品で、実際にペルーの場面が出てくる部分は限られているが、その筆致は生き生きとし、読む者をぐっとひきつける魅力がある。
難しいことを抜きにして「小説を読む純粋な楽しさ」に浸ることができる作品だ。素晴らしい小説の中には、ストーリーの展開を追ったり、早く結末が知りたいと思う気持を超えて、ただ、このめくるめくような「読む世界」の中に、どっぷりといつまでも浸かっていたい、と思わせてしまう作品がある。そういう作品に出会えることは多くない。『楽園への道』は確かにその類の作品の一つだと言える。
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