『情事の終り』 グレアム・グリーン


私にとって、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』『クオ・ヴァディス』と並んで、キリスト教の真髄について最も深く考えさせられた作品である。

主人公の中年の作家モーリスと高級官吏の妻サラァは、不倫の関係にありながら、激しい恋=情事を重ねている。主人公がサラァの不実を疑い始めるところから物語は始まる。推理小説風に、サラァの足跡を追いながら、主人公がやがて見出すサラァの秘密・・・それは、「情事の終り」から「愛」、それも究極の神への愛、唯一無二の愛を選ぼうとする殉教者の姿だった。

サラァは、モーリスが火事に巻き込まれて死んだのではないかと思った時、「彼を生かしてくれるのなら、彼をあきらめ、あなたに一生の愛を誓う」と神に祈ったのだった。そして、彼が生還したために、神への誓いと彼への愛の狭間で苦しみ、その苦しみゆえに死んでいくのである。

日本人の無宗教の私には、サラァのとった行動は理解しづらい。多くの現代人はそうだと思いう。「やったー!助かった!神様、ありがと!」それでお終いであろう・・・そこを乗り越えて想像しないと、この作品を楽しむのは難しい。神への愛は唯一無二、地上の愛とは究極的に両立しあえないのだ、という緊張関係、とでも言うのだろうか。

この作品は、男女の愛と神への愛、神と自己、肉体・迷信と神性・・・それらの類似性とパラドックスが、よく描かれている。ストーリーや文章も無駄が無く、率直で、読む者を飽きさせない。サラァや主人公の自己との長い対話の場面ですら、何か、読む者を生き生きとその中へ引き込んで捕らえてしまう魅力がある。
サラァの日記
「仮に神が存在したとして、彼がああいう肉体であったとして、彼の肉体が私の肉体と同じくらい確かに存在していたと信じることはどこがまちがっているのだろうか?もし彼が肉体をもたなかったら誰でも彼を愛したり彼を憎んだりできるだろうか?私はモーリスが煙霧になったとしてその煙霧を愛することはできない。それは卑しいことだ、獣みたいだ、唯物主義だ、それは知っている。けれどもなぜ私が獣的で卑しい唯物主義者であってはいけないのか。」
そこには人間=肉体を超えて究極の神性=神への愛へ飛翔しようとして苦しむ人間の姿がある。
「あの傷痕は彼の嫉妬と同じほども彼の性格の一部なのだ。だから私は考えた、私はあの肉体が煙霧であってほしいのか(私の肉体についてはそうだが、彼の肉体は?)そして私は自分があの傷痕を永遠にわたって存在させたがっていることを知った。けれど私の煙霧はあの傷痕を愛せるだろうか?すると私は自分の憎む自分の肉体がほしくなりはじめた、ただし私の肉体があの傷痕を愛せるからというだけの理由で。私たちは心で愛することもできるけれど、心だけで愛することができるのだろうか?」

彼の傷痕=肉体を存在させたい」と思う気持、そしてそれと同時に「その肉体を愛すために自分の肉体をとどめたい」と願う気持ち。

究極の愛との闘いに疲弊し、命を散らしたサラァの日記を読み、モーリスが呟く言葉。
「あなたはあの幾年かのあいだ、彼女を所有していなかった。ぼくが所有したのです。最後にはあなたがお勝ちになった、なにもそれをぼくに向って改めておっしゃるには及びませんよ、しかし彼女は、この部屋で、このベッドの上で、この枕を背中の下へ入れて、ぼくといっしょに横になっていたとき、あなたのことでぼくを騙してはいませんでした。彼女が眠ったとき、ぼくがいっしょにいた、あなたではなかった。彼女の肉体に入りこんだのはぼくだ、あなたではない。」飛翔しようとして苦しむ人間の姿がある。

神性と肉体・人格性がここまでぎりぎりと対立しあう、その緊張感。そして、対立しあいながら同一性を持つ、というパラドクス。そこまで思想を追い詰めて、考え抜く・・・西欧哲学・キリスト教の思想、というのは本当に理解しがたいなあ、と改めて思った。「煙霧」のような神、というのを何となく受け容れるアジア人と、「persona」=人格性が神の絶対条件だとして、考え抜く西洋人と・・・同じ神様でも、随分と違うものだと思う。

この作品でグレアム・グリーンのファンになった。主題は深くても、エンターテイメント性を忘れずに小説を構成できる、第一級の作家である。

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