『雨・赤毛』 サマセット・モーム


多分、中高生の頃に一度読んでいるはずだが、いまいち記憶に残っていなかった。先日、宮本輝の『本をつんだ小舟』でモームの「雨」が紹介されていたので、改めて読んでみたくなった。

新潮文庫の短編集には、「雨」のほかに「赤毛」と「ホノルル」が収録されている。流麗な文章と言い、しっかり伏線を張って含みをもたせ、最後は一気に読ませて余韻を残す構成と言い、本当によく出来た(と言うとなんだかえらそうだが)名作、という感じがする。現在の短編集の名手と呼ばれる作家も、きっとモームの手法を随分参考にしているであろう、それくらい、短編のお手本的作品だな、と思う。

印象的だったのは、やはり「雨」。ストーリーは今更説明するまでもないだろうが、狂信的な宣教師のディヴィッドソン夫妻と医者のマクフェイル夫妻は、最終目的地エイピアに向かう途中、伝染病によりパゴパゴの港に足止めされてしまう。雨季真っ最中のパゴパゴでは、毎日滝のような雨が降りしきり、ディヴィットソン夫妻たちはなすすべもなく、地元の一商人の家屋に仮の宿をとり、無聊を慰めていたが、偶然ホノルルから夫妻と同じ船に乗り、やはり足止めをされて同じ宿の地階に滞在していた、ミス・トムソンという自堕落な女の存在を知る。

同じ建物の中で毎晩蓄音機で派手な音楽を流して客をとり、夫妻たちに侮蔑的な態度をとるに怒りをつのらせるディヴィドソンは、あの手この手を尽くしてミス・トムソンを追い詰め、遂には監獄送りになるのを承知で、サンフランシスコに強制送還する手はずを整える。完全に追い詰められたミス・トムソンは、態度を一変してディヴィドソンにすがりつき、ディヴィトソンはこのチャンスを逃すまいと、毎晩彼女の元を訪れ、今までの堕落した生活を悔い改めるよう熱狂的に指導する。そして、ミス・トムソンは殆ど別人のように悔悛しきったようになり、いよいよ明朝サンフランシスコに送還されるという夜が訪れる。その夜、ディヴィドソンは、深夜遅くまで彼女の部屋で過ごした後、突然、浜辺で自ら剃刀で首をかき切って自害してしまう。憔悴してディヴィドソン夫人とマクフェイル夫妻が宿に戻ると、地階から再び喧しい蓄音機の音楽が聞こえてくる。
 彼はずかずかと行って、レコードをはねのけた。女はきっとなって向かって来た。
《「ねえ、先生、馬鹿なことおしでないよ。他人の部屋へ入ってなにするんだい?」
「その口はなんだ?その口はなんだ?」
 だが彼女はぐっとこたえて居直った。そしてそれはなんともいえない嘲笑の表情と侮蔑に満ちた憎悪を浮べて答えたのである。
「男、男がなんだ!豚だ!汚らわしい豚!みんな同じ穴の狢だよ、お前さんたちは、豚!豚!」
 マクフェイル博士は息を呑んだ。一切がはっきりしたのだ。》
ストーリーの進行の合間に、一見関係の無いようなさりげない調子で、牧師の身体的特徴や徐々に人々の理性を奪っていく南国の雨の様子が語られ、それが不吉なクライマックスを予感させる。
《冷たい何か死体をさえ思わせるものがあった。それでただ唇だけがひどく肉感的に見えるのがかえって意外なくらいだ。・・・太い、長い指をした形の美しい手、それは彼の力強い性格を想わせるようだった。だが彼を見て一番に感じるのは、なにか抑圧された火といった感じだった。
《あのしとしとと降る英国のような雨ではないのだ。無慈悲な、なにか恐ろしいものさえ感じられる。人はその中に原始的自然力のもつ敵意といったものを感得するのだ。降るというよりは流れるのである。まるで大空の洪水だ。神経も何もかきむしるようにひっきりなしに、屋根のナマコ板を騒然と鳴らしている。まるでなにか凶暴な感情でも持っているかのように見える。》
昔読んだとき、「言いたいことはわかるが、それにしても南国の降り続く雨程度で自我を破壊されてしまう英国人って、なんて弱いんだ」と感じたことを覚えている。フォースターの作品とかでも同じようなことを感じた記憶が・・・。好き勝手に生きている現代の私たちは、プロテスタントの禁欲主義に、固定化された階級社会制度の抑圧というのが、どれほど人間の本質的な部分を蝕み、すり減らしていたか、ということについて、もっと想像力を高めなければいけないのかもしれない。
もちろん「雨」というのは象徴的な役割なので、それだけでディヴィドソンが破綻するわけではない。むしろ重要なのは、欧米の宣教師がすべからく持っている、未開人たちを啓蒙しようという熱狂の危うさ、ひいては、欧米植民地主義・啓蒙主義に内在する、どこか不遜で狂信的な熱意の危うさ、とも言うべきものだろう。キリスト教の歴史や思想を知れば知るほど、信仰の外にいる者として、この危うさ、この脅威を強く感じられるようになる。激しくSMの両極端を揺れ動くような、不健全で不自然な情動とでも言おうか。
《「・・・あなたは私が平気でいるとでもお思いになりますか?私は私自身の妻、姉妹のようにあの女を愛しています。彼女の監禁ちゅう、私はあの女と同じ苦しみを苦しむのです。」
「馬鹿馬鹿しい話だ」博士はたまらなくなって叫んだ。
「あなたにはおわかりにならない。つまりあなたが盲いておられるからなんです。彼女は罪人です。だから苦しまなければならない。どんなに苦しいか、私にはよくわかっています。・・・私はあの女に、人間の与える刑罰を紙神への犠牲として受入れてもらいたい。喜んで受入れてもらいたいのです。・・・」
 ディヴィドソンの声は興奮に震えていた。溢れる熱情のままに唇から迸るその言葉は、ほとんどはっきり聞き取れないほどだった。》

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