フェリペ2世のことを調べているうちに、その仇敵とも言えるエリザベス女王に興味が湧いた。
ヘンリー8世からエリザベス1世に至るチューダー朝の最盛期は、ドラマティックなエピソードも多く、映像作品では昔から何度も取り上げられている。ここ20年くらいを見ても、映画では、2008年にナタリー・ポートマンとスカーレット・ヨハンソンという豪華キャストで話題になった『ブーリン家の姉妹』、1998年アカデミー賞受賞の『エリザベス』とその続編に当たる『エリザベス・ゴールデン・エイジ』。ドラマでは、2007年からアメリカ、カナダ、アイルランド、イギリス合作で放送され、エミー賞を獲得した『THE TUDORS〜背徳の王冠』、ブッカー賞受賞したヒラリー・マンテル原作の『ウルフ・ホール』に、メアリー・ステュアートを主人公にして2013年から放送された『REIGN クイーン メアリー』は、この血生臭い16世紀時代のイングランド史を、流行りのガールズドラマ風に仕立てる、というなんとも新しい趣向だった。もうご馳走様状態な感じなのに、2016年にはまたしてもイギリス制作のドラマ『ヘンリー8世と6人の妻たち』が放送されていると言う。
映画やドラマでは「またか」という感じなのに、日本語で読める文学作品は思いのほか少ない。それで、エリザベス1世とエセックス伯の関係を中心に、彼女の治世の後半について取り上げたこの古い小説を選んでみた。作者のリットン・ストレイチーはイギリスの伝記作家で、他にヴィクトリア女王やナイティンゲールの伝記作品などが有名。ヴァージニア・ウルフやE・M・フォースターらと共に、20世紀前半、イギリスの芸術家や学者で形成したブルームズベリー・グループの主要メンバーとして知られている。リットン・ストレイチーの邦訳は、戦前の古いものが多く、私はこの作品で初めて読んだが、いわゆる歴史上の偉大な人物の「人間臭さ」を等身大に描く、新しい伝記文学を目指しことで知られる。
読んでいて一番印象的だったのは、エリザベス1世の性格というのか、ほとんど神経症的な気の変わりやすさや激しやすさだった。息子ほどにも歳の違うエセックス伯への恋心、それも女王としての威厳に満ちたものではなく、派手な喧嘩をしたかと思えば、人前でいちゃついたり、嫉妬したり、そして、そんないざこざを、重要な国政にまで持ち込んでしまう。この作品は、アルマダ海戦の後、エリザベス治世の後半が中心だが、この時代で言えば紛れもなく老年、晩年に達しているのに、若いエセックス伯とこの騒ぎなのだから、若かりし頃に噂のあったレスター伯やサー・ウォルター・ローリーといった面々については、どれほどイングランド中が彼女の神経症的行動に振り回されたことだろう。
これこそエリザベスの持って生れた気性なのだー天候が穏かならば優柔不断の海に漂い、海が嵐に荒れ狂えば、熱に浮かされたように右へ左へと際限もなく進路を変える。もしもこういう気性でなかったならーもしエリザベスが強靭な行動の人特有の能力、即ち確たる方針を打ちたてそれに固執する能力を持っていたならー恐らく彼女は敗北を余儀なくされていたであろう。女であることが、女々しさがエリザベスを救った。女だからこそ恥も外聞もなく言を左右にして巧みに言い抜けられたのだ。
この部分は、フェリペ2世の記事でも引用し、フェミニストには眉を顰められそうな表現ながら、作者が捉えたエリザベス1世の性格をよく表している。(余談だが、この女性蔑視は、時代的なものだけでなく、リットン・ストレイチーが同性愛者であったこととも関係あるかもしれない。『サピエンス全史』の著者も同性愛者を公言しており、男性同性愛者の女性蔑視は表象として結構分かりやすい形をとっているような気がする。上野千鶴子先生が知ったら、さぞかし「ミソジニー」分析の格好の餌食になってしまうことだろう)
こういうのが「女らしさ」「女々しさ」であるかどうかの議論は別として、確かに彼女の気性の不安定さは、色恋沙汰だけでなく、政治的判断にまで影響しているように見える。エセックス伯を戦地に送り出したかと思えば、あくる日にはすぐ呼び戻したり。こんな最高司令官で、強大な官僚組織化したスペイン相手に、よくイングランドが勝利したものだ。リットン・ストレイチーは、このエリザベスの性格について、本書の中でこう分析している。
この謎に対する答えは恐らくー当時の様々な傍観者達が仄めかし、以後権威ある学者も認めている通りーエリザベスの病いの殆どはヒステリーによるものだということであろう。あの鉄の如き肉体は神経の餌食になっていたのだ。エリザベスが生涯に遭遇した危険と不安は、それだけでも、人一倍活気に溢れた人間の健康でさえ揺がすに十分であったろう。が、さらにエリザベスの場合には、偶々、神経症的症状を呈するに十分な特別の理由があった。性的に甚だしく歪められていたのだ。
(略)
このような境遇ーそれは恐るべき異常なものであったーその中でエリザベスの幼児期と思春期は過ぎて行った。それなら、たとえ彼女の場合に人間としての成熟期が神経的疾患の兆候を示していたからといって、一体誰が驚くというのか?
この時代の血生臭い歴史を考えれば、王家の者は誰でも神経症になっていておかしくはないが、確かにその中でも、エリザベス1世とその異母姉にあたるメアリ1世は、発狂してもおかしくないような境遇ではある。ただ、メアリ1世が母方スペイン王家のカトリックに敬虔で辛気臭い性格を受け継いでいたのに対し、エリザベス1世は実際には宗教には無頓着で、芸術や社交を好む華やかな性格だったようだ。《エリザベスの多芸振りは目も眩むほどの豊かなものだった。自国語は言うに及ばず、さらに六カ国語を熟し、ギリシア語を学び、美しい飾り文字の書き手としても秀で、優れた音楽家でもあった。また絵画と詩歌に対する鑑賞眼をも有していた。舞踊も得意で、流儀はフィレンツエ流に則り、その高雅な舞いは観る者をして賛嘆の声を挙げしめた。会話はユーモアのみならず気品と機知とに溢れ、確かな社交感覚と、人を魅する繊細な理解力とを示していた》このような陽気な一面を持つエリザベスの魅力は、映画『エリザベス』でケイト・ブランシェットが演じた姿と一致する。
しかし、エリザベスは同時に、神経症的で優柔不断な性格をも合わせ持っていた。著者はそれを《この時代に見られる数々の矛盾》と呼び、《エリザベス朝の人々に見られる一貫性の欠場は、人間に許される限界を遥かに超えている》とまで評している。そしてその象徴的な人物として、主人公のエリザベス1世と共に、脇役としてあのイギリス実証主義の生みの親であるフランシス・ベーコンを挙げているのである。ベーコンについてはここでは詳述しないが、エリザベス1世の持つ二面性と矛盾について、著者はこう語っている。
このことを証明する例として、まさに最高の人物が少なくとも一人は存在したー優れてエリザベス朝的人物であり、かつて地上に足跡を印したいかなる人物にも増して、まさにバロック的人物と言える存在がー他でもない、エリザベスその人である。
これを読んだ時、もう一人の「バロックの女王」であるスウェーデン女王クリスティーナを思い出した。クリスティーナ女王については、以前、別の記事で詳しく取り上げたが、彼女もまた、極めてバロック的であり、後世には理解し難い二面性や矛盾を抱えた人物だった。時代や国は異なるが、この二人の女王を並べて見ると、ルネサンスとは何か、バロックとは何か、そして啓蒙の近代の後に失われてきたものは何だったのか、そんなことについて深く考えさせられる。
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