『対岸の彼女』 角田 光代


妙に印象に残る作品だった。

引っ込み思案で周囲の顔色を気にしてばかりの専業主婦小夜子は、一大決心をしてハウスクリーニングのパートを始める。勤め先の女社長は、小夜子と同い年で、さばさばした性格の独身女の葵。小夜子は少しづつ自分の殻を破りながら、新しい仕事に精を出し、立場も性格も違う葵との距離を縮めていく、そのストーリーと同時に、葵の高校生の頃の物語が、並列で進行していく。
高校生の葵とナナコの仲は、不幸な結末を迎えるのだが、大人になってからの小夜子と葵は、お互いの誤解や立場の違いを乗り越えて、なんとか仲直りに漕ぎ着けるところで小説は終わる。それぞれの物語で、主人公(現代の物語では「小夜子」、過去の物語では「葵」)が、人と人との関わりの煩わしさや厭わしさを克服して、最後の最後で「それでも人を信じよう」と思うところに、ドラマがあり、救いがある。

対照的な女性二人を描いた小説、というのに興味がある。いつかそういう小説を自分で書いてみたいと思っているくらい。江國香織の『ホリー・ガーデン』、唯川恵の『肩越しの恋人』『彼女の嫌いな彼女』『永遠の途中』などなど。 こういう設定は、幅広い読者の共感を得やすいし、対照的なだけにキャラクターも描きやすくて、小説家には良い題材なのかもしれない。それは男性でも同じことなのだろうけど、特に現代でそういう設定のものが女性に好まれるのには、別の理由があるかもしれない。

まず、女の人生の選択肢がすごく幅広くなったこと。そして、選択肢が広がった分、本質的には価値観や性格がそれほど違わなくても、選択する生き方や社会上の身分が結果として随分異なったものになってしまう、ということもあるのかもしれない。

例えば、いかにも「対照的な女性」というプロトタイプで、「キャリアウーマンと専業主婦」という設定があったとして、多くの女性は、どちらの主人公にも部分部分で共感することができると思う。キャリアウーマンが、自分の稼いだお金でバーキンを買えば誇らしげな気持になり、専業主婦が、愛する人の帰りを待ちながら丁寧に夕食をつくれば温かい気持になる。一方で、キャリアウーマンが、残業で疲れ果てて一人の寂しい夕食をすれば、その孤独を厭い、専業主婦が、横柄な旦那やうるさい姑に悩まされれば、その憂鬱を想像する。「どっちの気持もわかるわー」ということになるだろう。

一方で、男性でも同じような設定をして、例えば「エリートサラリーマンと出世やお金に興味の無いフリーター」だったら、中々そうはいかないのではないだろうか。多くの男性が「うん、どっちの気持もわかる!」と思うのではなくて、どっちか一方に肩入れする男性が大半になるような気がする。そして、その二人の主人公たちが、お互いの立場を完全に超えて「わかりあえる」結末になったとしたら、多くの男性読者は違和感を覚えるのではないだろうか。

要は、いくら「対照的」とは言っても、女の分岐点は男のそれよりずっと曖昧で、さらに社会的な立場や仕事や身分に縛られる部分が比較的小さいので、一見正反対に見える立場でも、本質的なところではさほど差異が無い、ということなのだ。さらに、女の人は欲張りなので、「あれもこれもほしい」的欲求から、対照的な立場や境遇の女性に、より興味を持って感情移入する、というのもあるかも。

この『対岸の彼女』は、仕事や社会的立場の対照性が取り上げられているわけではく、性格とか内面的な対照性がクローズアップされているが、物語の進行とともに、葵の過去と小夜子の現在がクロスして、どちらがどちらの「対岸」にいるのか、その境界線は段々曖昧なものになっていく。
小夜子は手紙から顔を上げた。
 見たことのない景色が、実際の記憶のように色鮮やかに浮かんだ。
 川沿いの道。生い茂る夏草。制服の裾をひるがえし、陽の光に髪を輝かせ、何がおかしいのか腰を折って笑い転げながら、川向こうを歩いていく二人の高校生。彼女たちはふとこちらに気づき、対岸に立ち尽くす高校生の小夜子に手をふる。ちぎれんばかりに手をふりながら、何か言っている。小夜子も手をふりかえす。何か言う。なーにー、聞こえなーい。二人は飛び跳ねながら少し先を指さす。指の先を目で追うと、川に架かる橋がある。二人の女子高生は小夜子に手招きし、橋に向かって走りだす。対岸の彼女たちを追うように、橋を目指し小夜子も制服の裾を躍らせて走る。川は空を映して、静かに流れている。
最後のちょっと胸が切なくなるような一節。彼女たちの間を流れる川は何だったのか、そこに架かる橋とは何だったのか、どちらも小夜子が見た白昼夢のようなものだったのかもしれない、、、そんな風に感じさせるラストシーンだった。

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