書評・小説 『おかあさん疲れたよ』 田辺 聖子


田辺聖子さんが戦争を描いた小説があるというので、珍しいな、と興味が沸いて読んでみたが、ものすごく良かった。田辺聖子さんの大好きな引き出しがまた増えたなあ、という感じ。

あとがきで、著者は《「私の昭和」を書きたかった》と語っている。昭和史の中でも特に、「戦中派」と呼ばれる、太平洋戦争時代に生まれた世代をテーマに、彼らの戦後史を描いたものだ。中心となるのは、その「戦中派」世代である昭五とあぐり、そして少し遅れた「戦争を知らない世代」である昭五の妻、美未である。この3人、それぞれに、田辺聖子さん自身が生きていて、キャラクターがものすごく生き生きとしている。

バブル期を迎えた80年代日本の「虚栄の市」のオープニング。そして、軍需工場に動員されていた昭五とあぐりの少年少女時代、終戦直前の大阪市内を襲ったすさまじい空襲、戦後の焼け野原から復興した大阪の活気、若者たちが集う「うたごえ喫茶」での昭五とあぐりの再会、未だ戦後の傷痕を残しながらがむしゃらに働く昭和30年代、やがて、女性も徐々に社会進出し、戦中派の「ハイミス」や働く女性たちもスナックに集うようになり、そこで昭五と美未は出会い、結婚する。

昭五が、戦争も軍人も嫌いだけれども、山本五十六だけは<ぼくら男の子の夢をいっぱい手に受けて、あの人は死んでくれた>と言って慕う気持ち、恋愛中のあぐりと三島由紀夫の自死について本気で言い争うところ、昭和四十七年、グアムから帰還した横井さんの有名なセリフ『はずかしながら生きながらえて帰ってきました』に対し、「ちょっと、コタえたわ。」「ときどき、あたし自身が、『横井さんしてる』と自覚するとき、あるわ」と言うあぐり、、、「戦中派」から見た昭和史はなかなかに興味深い。

三島由紀夫の自死など、完全戦後派の人々には中々扱いが難しいテーマであるが、《少年時代に軍事教練を強いられ、皇国史観で思想の枠組にはめこまれ、天皇は現人神、日本臣民はその赤子と叩きこまれた世代の昭五にとって、三島由紀夫の右寄りの言動は、(おいおい、どこいくねん。そこはもう、話ついてチャラになったとこやで)といいたいほど、当惑させられてしまうのだ》とバッサリ切られると、思わず吹き出してしまいそうになる。

これは田辺聖子さんご自身の昭和史であると共に、自分と同じ「戦中派」への哀悼歌でもある。特に、戦場に出て華々しく語れることもなく、軍需工場の徴用中に爆撃され幼くして死んでいった同級生たちや、戦後を生き抜いたが、《結婚すべかりし相手を戦争に奪われ》、また、あぐりのように、戦争に奪われた男児役を担う責務を負って、生涯未婚のままに終わった女性達への。

男の戦死者は哀悼されるが、その陰に、結婚すべき相手を失い、孤りで生きることを強いられた戦争犠牲者たちに、世間も男も(昭五もその孤だが)気付かなかったのだ。彼女らもいたわられ、なぐさめられるべき被害者たちだったのに。

そんな「昭和史」の生き生きとした描写と共に、「恋愛」とくくってしまうにはあまりに深くて広い、「男と女」とも言うべき田辺聖子さんお得意のテーマが見事に両立していて、上下巻800ページ近い長編だが、全く長さを感じさせない。男と女の人生観や感じ方の違い、結婚や夫婦のありかた、家族、仕事、いろんな観点から「うーん」と思わず唸るような、人生の教訓とも言うべき粋なフレーズが飛び出す。挙げていたら、それこそキリがないのだが、やっぱりあんまりの名文、名句なので、少しだけ載せておこうと思う。

まずは男たち。

ほぼ四十年間のサラリーマン生活は、どこまで人はあつかましくなれるか、という競争みたいなものだった。あつかましさの功徳、というのもある。人は追いつめられると、自分もあつかましくなれることを発見する。その能力の自覚は、またあらたな人生の展開を示唆してくれる。そのおかげで「ただしい」よりも「たのしい」人生に気づくこともある・・・

「滅私奉公」や「大義、親を滅す」というサムライ教育はほどこされるが、どんな家庭を築くか、とか、妻とどう向きあうか、なんて夢やイメージは、てんで育っていなかったのだ。そんなものが必要とも思えない。

仕事で、この品物を、この価格でどれだけ売ってこい、といわれれば、勇躍、販売作戦をたてて攻撃にかかるのに、もう一つの戦争、家庭経営については、なんの目算も心組みもなかったのだ。

会社会社、また会社・・・日本じゅう、

(社員ばっかりやないか、男はどこにおるねん。社員しか結婚相手のない日本の女は、可哀そうやなあ)

とも思う。自分の今までの人生も、六十になって省察すれば、まさにそうだった。

社員でなく、男になれたのは、あぐりとつきあった二十代と四十代の、ほんの短い、いっときの間。

そして、女たち。

女のなかには、なぜか自分がいちばん偉いと思いあがっているのがいる。もちろん男にもおり、その点はまさに男女平等なのであるが、昭五の見るところ、ふしぎにも女のほうが、自分の偉さを過信している人間が多い。これは「恐れを知らぬ」社会性のなさ、からだろうと昭五はお思っている。世の中にはどんな偉いやつがおるかわからへん、という、ビビる気持を、男なら無意識に持ち、警戒する。それは人生というジャングルの中で手さぐりで進む猛獣の自己防衛本能といっていい。それが女には少い。

<主婦というのは実力はないくせに、プライド高い人種である>

すべて美未自身のことなのだ。荒天を単独で乗り切る自信も実績もないくせに、やればできると思いあがっているところがある。

それも女の人生やろ、と思う。きょうだいは他人のはじまり、という真理を、六十年過ぎなければ悟れないようにできている、女の骨肉愛の強さがあわれであった。

結婚と夫婦。

夫婦円満の秘訣のフレーズはただ一語のみ、と考えている。

それは

『どうぞ』

というコトバである。もし、二語あるとすれば、

『どうぞ、どうぞ』

というリフレインである。

<だいたい、幸福な結婚から、箴言やヒントが生れると思うかい?>

<生れないでしょうね>

<な。生れるとしたら、自信、確信、狂信のたぐいやね、それは自慢になり手前味噌になり、やがて、ほかの人間への干渉になる。自信や干渉から、人生のヒントは生れへんねん>

他にも、人生における箴言がいろいろ。

(鼻っぱしらを折られる、というのは人間には必要やなあ)

と昭五は考えるようになっている。

<コトバでいうと、ほんまのことが流れてしまうことがあるよ>

<ふうん>

<コトバって、先くぐり、というのか、上すべり、というのか、思てないことがひょいと出てくる場合が、ないとはいえんぜ>

<そうね、なぜか口をついて出て来ちゃうときがある、思ってないのに>

<そやから、人のコトバをそっくり信じてはいかん。気の毒や。人のいうことをすぐ、言質にとったり、揚足とってはいかん。

取り返しつかない、という考え方こそ、取り返しつかないのだ。人は、ああも考え、こうも思いして生きてゆくものなのだ。

美未という女性を通して、「作家・田辺聖子」の代弁をしているあたりも、この小説の面白いところ。

<芸術>に関係のないところで仕事して、出来あがってみると芸術でないとはいえない・・・という、そういうあやふやだが一種の市民権を与えずにはいられない、そんな世界を夢みていた。

マンネリではない、『くりかえし』は一つの大きな力だ、というんです。くりかえし書いて、念を押さなきゃ、いけないって。ー『念を押す』というのは、芸術の泉や、というんです、変な人でしょ

以前、『ジョゼと虎と魚たち』『休暇は終わった』の記事で、田辺聖子小説の醍醐味みたいなものを私なりにまとめてみた。この小説は、その種の田辺聖子さんの恋愛小説とはちょっと毛色の違う、異色の作品であるけれど、そういう楽しみ方もやっぱりできる。飄々として温かみがあって表現力豊かな関西弁トーク、美味しいもの、関西の風物やロケーションなども健在だ。特に、関西のロケーションについては、昭五やあぐりが若い頃を楽しむ戦後復興に沸き立つ大阪、40代の落ち着いた頃には鄙びた郊外や落ち着いた町並みの神戸、そして50、60代になると日本の古代中世の風情を残す京都、と順々に舞台が移り変わっていくのも粋である。

そして、タイトル。これもいつも通り、最後の最後で「ああ」と思わされる仕掛けがある。昭五と美未の間には、思春期の娘がいる設定だが、物語の中で、「母」というテーマはほとんど出てこないから、読んでいる間じゅう、なんとなく「おかあさん、疲れたよ」というこのタイトルが不思議で気になってしまう。そして、あぐりの死に至って、最後にやっとこのタイトルの意味が分かるのだ。ここは涙なくして読めない、いや、涙で片付けるにはなんとも切ない、万感の気持ちにさせられるシーンである。まだ知らずにこれから読む人が羨ましくなってしまうような、田辺聖子さんのいつもの仕掛けである。



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