書評・小説 『ジョゼと虎と魚たち』 田辺聖子


ことし6月、田辺聖子さんの訃報を聞いてから、また読み直したいなあ、と思いながら、ずるずると日が経ってしまった。「多作」というだけであまり良いイメージをもっていなかった私が、今から10年くらい前だろうか、田辺聖子さんの本を読むようになったきっかけとなった本だ。久しぶりに読んで、うん、やっぱり、私の好きな田辺聖子さんのエッセンスが詰まった短編集だなあ、と思った。

で、今回は少し、そのエッセンスをまとめてみたいと思う。もちろん、田辺聖子さんは引き出しの多い作家さんなので、ここに挙げたのは、あくまで私が個人的に好きな部分ということだけど。

1. 自立した女性像と女らしさの絶妙なバランス

田辺聖子さんの小説は、何十年も前に書かれたものでも、経済的に自立した女性が主人公になっているものが多い。経済的に自立している上で、仕事の厳しさとか結婚や世間体との葛藤とかが描かれているから、古臭くなくて、今の女性が読んでもすごく共感できる。「お茶があつくてのめません」のシナリオライターのあぐり、「恋の棺」のインテリアデザイナーの宇禰みたいな華やかな仕事もあれば、「荷造りはもうすませて」で共働きをするえり子とか、「雪の降るまで」のように地味な銀行勤めを独身のまま続ける以和子のような女性まで幅広い。かと言って、バリバリのフェミニストというのではなくて、やっぱりどこかで男に守られようとする女の甘さ弱さとか、世間的な男女の役割や結婚観に縛られてざわめいてしまう心とか、そういうところも見逃さない。男と女の考え方や感じ方の違いにも、とても敏感だ。そんな微妙な心の襞が分かっているからこそ、「うすうす知ってた」の梢みたいな、ロマンチックなまま歳をとってしまった自立できない女主人公もまた、魅力的に描けるのだと思う。要は、自立した女性像と「女らしさ」みたいなものとが絶妙なバランスで描かれているのである。

2.魅力的なオトナな男とオトナでない男の魅力

田辺聖子さんの恋愛小説には、「オトナ」な男が、それはまあ、魅力的に描かれている。中には、『恋にあっぷあっぷ』で描かれたみたいな、実在を疑いたくなるくらいにかっこいい男も出てくるが、結構繰り返し出てくる男性像でもあるので、きっと「オトナ」な田辺聖子さんは知っている実在のモデルがいるのであろう。(そう信じたい)で、「オトナ」な女性作家は、これと対照的に、「若い男」の魅力というか、稚拙さやだらしなさと表裏一体の若さの魅力を描くのもまたお上手なのである。「恋の棺」や「男たちはマフィンが嫌い」に出てくる若い男たちは、女主人公が「オトナ」であるからこそ、「オトナ」の男にはない、敢えて同じ土俵にいない特別の魅力をもっている。田辺聖子さんは、「オトナ」の成熟した男を「デキブツ」と呼んだりするが、デキていない男もまたデキていないからこそ魅力的なのである。

3.関西の言葉と雅な風物

田辺聖子さんは、大阪出身で、人生の拠点を最後まで関西に置いた人である。関西に由縁のない私でも、彼女が描く関西の姿はとても粋で雅で興味深くて、読んでいて惹きつけられてしまう。

まず、登場人物たちが発する関西の言葉の数々が、なんとも言えず面白い。

「お茶があつくてのめません」のあぐりの昔の男の≪もっちゃりした ≫口調。あぐりと結婚すると言っておきながら、他の女との縁談を進め、土壇場で≪やっぱりアレな、あかんわ、ぼく ≫としゃあしゃあと言ってのけ、別れて何年も経って出世したあぐりに突然電話をかけてきて≪会うたってくれへんか≫と呟く。

「荷造りはもうすませて」で、夫が前妻との間の家庭の≪ヤッサモッサ≫に巻き込まれ、置いていかれたえり子は所在なく「てっちり」のお店で一人待つが、そんな彼女に夫は≪結構なこっちゃな≫と捨て台詞。

方言というのは、使い慣れた人にしか分からない微妙な意味合いやトーンや響き方がある。田辺聖子さんの出してくる関西弁は、うーん、これは他の言葉ではどうしても代用できない、という微妙なニュアンスや響きがあって、それが面白いのである。

関西の面白さを感じさせてくれるのは言葉だけではない。田辺聖子さんは、お話の中に、絶妙な関西らしさ、それもちょっと雅な関西らしい風物を織り込むのもうまい。

「恋の棺」に出てくる六甲山上のホテルのスノッブな雰囲気や、「雪の降るまで」に出てくる京都の粋人だけが知っている民家風のしっとりとした隠れ家なんていうのは、田辺聖子ファンにとってはお馴染みの舞台である。その他にも、「それだけのこと」で出てくる大阪天満宮の天神サンのお祭りとか、「荷造りはもうすませて」でえり子がさまよう淀屋橋添いの大阪の街の雰囲気とか、「男たちはマフィンが嫌い」でミミが待ちぼうけを食う、岡山の瀬戸内海添いに建てられたヨーロッパ農家風の別荘なんて、少し変わったのもある。別荘からは、歩いてリゾートホテルのプールにも行けるし、そこの漁村の魚屋さんで毎日新鮮な魚を見繕って届けてもらえる。素敵過ぎるやろ!と突っ込みたくなるようなところである。

どれもこれも、他の地方ではちょっと手が届かない、関西の歴史的重みというか、粋な文化の積み重ねというか、そんなものを感じさせるロケーションや風物詩だ。田辺聖子さんは、もちろん、こういうものの魅力を骨の髄まで分かって、愛して、その上で演出してるな、という感じがする。それが誠に心憎い。

4.はっとさせられる言葉、そしてタイトル

田辺聖子さんの小説を読んでいると、本当にはっとさせられる言葉に出会う。ゆったりストーリーに身をゆだねていると、思いもかけずドキっとしたり、ギクッとしたり、ズキンとしたりする言葉が挟まるので、油断がならない。特に、家族だとか家庭だとかのもつ欺瞞、生臭さ、そういうものをズバっと言い当てるところは、こちらがヒヤリとさせられる。

このマンションの住人には小さい子を持っている人が少なくない。親たちがその子供にかまうさまを見ていると、まわりの人間は視野に入らないようにみえた。現に宇禰はいま一階でもろともに突き出されそうになったのだ。母親たちは宇禰の存在など目にも入れていないようにみえた。

(子をもつというのは限りなくエゴを知ることだ)

と宇禰は思っている。しかしそれを世間に吹聴することはない。

「恋の棺」

その憂鬱の予感は、まんざら根のないことでもないのだ。

彼はいけどられにいくのだから。

家庭というものに。

「いけどられて」

一晩、女の子とはじめての経験をしたけど、そのことが友人の口から、偶然、お袋に知れてしまい、お袋はショックで泣き出して、一旦寝込んでしまったそうである。

「あれ、なんでやろ。僕が体験したぐらいのこと、知らん顔してくれたらええのに」

私は連と、家庭は猥褻だと言い合ったことを思い出したが、黙っていた。しかし志門がそんな話をしても、当然のこととして私は彼の母親ではないので、ショックもなく、生臭さも感じないのであった。むしろ泣き出すお袋のほうが生臭かった。

「男たちはマフィンが嫌い」

こういうさらっとした何気ない言葉が、声高に叫ばれるよりも威力をもって迫ってくる。剽軽な関西の言葉やら雅な情景やら美味しそうな食事の描写やらに浸って読んでいると、思いがけないところでグサっと刺される。でも、そのグサっとくる感じが快感で読んでしまうのだ。

もちろん、家族や家庭だけではなくて、恋愛とかあるいはセックスとかについても、そういうドキっとする言葉が出てくる。

(不機嫌というのは、男と女が共に棲んでいる場合、ひとつっきりしかない椅子なのよ…)

とえり子はいいたいのである。

(どっちか先にそこへ坐ってしまったら、あとは立っていなければならない椅子とり遊び。自分が坐っちゃいけないのよ)

荷造りはもうすませて

ひょっとしたら、それが恋に落ちるきっかけだったのかもしれませんけれど、私はそれまで、自分が何かを可愛がるより、夫に可愛がられるだけで、充分だ、と思いこんでいました。

女は人に可愛がられるのが幸福なのだ、という神話を、女の子をもつ親は信じていますが、でも女の両手はいつも可愛がるものを求めて宙にさしだされているのではないでしょうか

「それだけのこと」

<教養、無うてすみません>

といったことがあるが、

<そんなん、教養やない。ほんまの女の教養いうたら、あんたみたいに、あれが好きな女のことどっしゃん>

と大庭はふざけていった。

<いや、女の、やない。人間の教養、いうんかいなあ。じっくり楽しむことのでける余裕が人間の教養や>

雪の降るまで

ドキっとさせられるのはもう一つあって、それはタイトルである。田辺聖子さんの小説のタイトルは、長編であれ短編であれ、最後の最後で「ああ、そういう意味だったのか」と気付かされるものが多い。これは作者が入念に用意した一つの「仕掛け」である。お話があえて虚構の世界ですよ、ということを思い出させてなお、読み手をしみじみさせたり、ドキっとさせたりする、粋な「仕掛け」だなあ、といつも感心してしまう。

以上、かなり長くなってしまったが、私の愛する田辺聖子小説のエッセンスである。むろん、食いしん坊の私には、これに「美味しそうな表現」というのも加わる。どっかの対談で、田辺聖子さんは、インタビュアーに「いつも小説に美味しそうなものが出てきますね」と言われて、「そりゃそうよ、読む人があーこれ食べたい、と思わせてやろうと思って書いてるもの」と答えていた。これもまた、大作家の仕掛けと演出の一つなわけだが、私も例に漏れず、これにまんまと引っ掛かって幸せな時を過ごすのである。

ということで、最後に、本書の仕掛けの一部をご紹介しておこう。

肉団子やら鶏肉のつくね、野菜のうま煮にサラダ、梅干、ごぼうのきんぴら、そして枝豆の入った卵焼きが詰められたお弁当(「それだけのこと」)、しっぽりとした隠れ家で食べる独活とまながつおの味噌づけを焼いたもの、それに甘海老と白魚、岩茸のとり合せ、鯛かぶらなどの載せられた御膳(「雪の降るまで」)、ニンニクと生姜をすりおろしたものに、どっさりのあさつきと紅葉おろしを添えた新鮮なイワシのタタキと庭にはえている山蕗と煮付けた蕗ごはん(「男たちはマフィンが嫌い」)、青磁の皿に並べられた桜のはなびらのようなふぐのさしみ「てっさ」(「荷造りはもうすませて」)

美食の限りを尽くしたように思わせて、一番美味しそうなのは、実は、冷やしご飯をレンジで温め、茶碗にかるく、ふんわりと盛り、塩をぱらぱらと振ってそこへ新茶の出る時分の、宇治のいい碾茶をふりかけて食べる「碾茶ごはん」だったりする。(「うすうす知ってた」)

これぞグルメ!田辺聖子さんはやっぱり偉大である。

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