書評『はじめての沖縄』 岸 政彦


この初心者向け旅行ガイドブックのようなタイトルの本を手にとったのは、沖縄への観光旅行を予定していたからではない。沖縄には何度か行ったことはあるが、すべて観光、というよりも完全にレジャー&バカンスが目的の旅だった。首里城だけはちらりと見学したことはあるものの、アメリカ村や普天間はおろか、ひめゆりの塔や平和祈念公園すら行ったことのない不届き者だ。本土とは異なる風俗や歴史、沖縄戦、基地問題、知らなければならないこと、考えなければならない問題がそこにあることを知りながら、重たさの前に見ないフリをしてきた、というのが本音である。そんな私が、この沖縄の社会学者の本を読もうと思ったのはなぜなのか、自分でもうまく説明がつかない。ひょっとしたら、大の旅行好きで、孫とも何度も海外旅行に出かけたのに「沖縄だけは行きたくない」と呟いていた戦争経験者の祖母が、齢94歳で昨年亡くなったことと関係があるかもしれない。

とにかく、何事も最初の一歩から、と思って読み始めたこの本。読み始めてしばらくは、なんだか雑多なエピソードや所感が散りばめられていて、とりとめのない内容だなあ、と思った。タクシーの運転手さんの会話から「沖縄らしさ」を考察したかと思えば、沖縄出身の友人がカラオケで「てぃんさぐの花」を歌いながら号泣したエピソードを紹介する。社会学者が「はじめての」とタイトルした以上、もっと体系的かつ理路整然とした内容を期待していたんだけどなあ・・・けれども、読み進めていくうちに、この著者がどうしてこういう書き方をしたのかが分かってくる。「沖縄」というとても流動的で複雑で重層的な意味をもつ場所を語る為に、敢えてこういう書き方をしているのだ、ということが。

本の中盤には、沖縄戦経験者へのインタビューが幾つも出てくる。沖縄戦についての著者の解説や感想は殆どない。このインタビューの内容がとても壮絶で、著者の意図に反すると思うので、ここに概略を説明することは控えるが、ちょっとやそっとでは言い表せない複雑な気持ちにさせられる。とにかく一度読んでみてほしい。著者はここで「語る」ということの唯一無二の体験性、身体感覚を伴った体験性を再現しようしているのかもしれない。

聞き取りの現場では、語り手だけではなく聞き手もまた、語ることを要求されることがある。

打ち解けて語るうちに、「語り」は「語らい」へとしばしば変わる。ここでは調査者もまた、さまざまな質問を受ける。(略)

聞き取りという場は、調査者からの一方的な質問だけで構成されているのではない。それは相互行為だ。ここではわれわれ聞き手もまた語ることを要求される。(略)

調査が進行すればするほど、沖縄の人びとの相互行為が進展すればするほど、その社会のイメージも、客観的で距離を置いた、静かでもの寂しい、つまり「視覚的」なイメージから、相互行為の状況に埋め込まれた、にぎやかで楽しい、つまり「聴覚的」なイメージになっていくのだ。基地や貧困に苦しむ人びと、という一面的なイメージから、複雑で流動的な人生を営む、したたかでたくましい人びとへ。

ただ、沖縄がかくも複雑なのは、戦争の体験が壮絶だったから、というのが主因ではない。言うまでもなく、沖縄は、日本の一部でもあり、かつ、歴史的に現在に至っても疎外された存在である、からこそ、複雑なのである。著者と同じく「ナイチャー=内地の人」にとって、自分と間違いなく同種でもありまた異質でもある沖縄を、どうやって偏見や差別の意識なく、中立的かつ客観的に語ることができるだろうか。そもそも自分の一部でもあるものを「客観的に」語ることなど可能なのだろうか。沖縄を語る正しい「話法」が存在するのだろうか。この本の中で、著者は繰り返し問う。

沖縄はいつも、愛され、欲望されている。

沖縄はしばしば、「女性」を語るための形容詞を付けられて語られる。それは優しく温かい場所、私たちをいつでも受け入れて、癒してくれる場所だ。対して本土の東京は、冷たくてビジネスライクな、経済至上主義的な、排他的な、弱肉強食の競争社会であるとされる。それらは、どちらかといえば「男性的」な形容詞である。(略)

一方で、都会的で、合理的で、ビジネスライクで、近代的なものがあり、他方で村落共同体的な、前近代的な優しい癒しのムラ社会がある。この「話法」の組み合わせは、それぞれのレベルとサイズで、どこにでも繰り返し出てくる。アメリカと日本、日本と沖縄、那覇とコザ、コザと美里、沖縄本島と離島・・・。沖縄が前近代的なムラ社会である、と言われるとき、それは暗黙のうちに東京と比較されてのことであり、決してフィリピンやタイと比較されているのではない。(略)あるいは、東京に対する沖縄の語られ方は、東京に対する大阪の語られ方とよく似ている。そして、東京に対する大阪の語られ方は、那覇に対するコザや糸満の語られ方と、とてもよく似ている。

このように考えると、「沖縄らしさ」というもの自体が、意味のないただの「話法」のように思えてくる。すくなくともそれは、暗黙のうちに比べられたものとの対比においてしか、実質的な意味をもたないのである。

さて、もしこのような話法が、過度な一般化であり、勝手な単純化であり、ただのラベル貼りであるとするなら、私たちに残された他の選択肢は何だろうか。そうした単純化された沖縄にかわって、複雑な沖縄、流動的な沖縄、多層的な沖縄を描けば、問題は解決するのだろうか。

だが、複雑な、流動的な、多様な沖縄を語ろうとするときでさえ、いかなる話法からも自由になろうとすることは、ほんとうに困難だ。そうした多様な沖縄は、それはそれで、ひとつの真逆の政治的話法を引きつけてしまうのである。

ここへ来て、沖縄の「話法」をめぐる問題が、差別やマイノリティをめぐる問題と重なってくる。著者が、途中から女性や外国人に対しての差別問題に触れているのは決して偶然ではない。《沖縄はいつも愛され、欲望されている》で始まる引用部分で、沖縄が女性的に語られている、と表現したことももちろん偶然ではない。

どのように語ればよいか、ということについて、はっきりとした正しい答えは存在しない。ただここでは、この、どのように語るにしても私たちは何らかの意味で政治的になってしまうー南の島への素朴な憧れも含めてーということについて、もう少し考えてみたい。

どう語っても政治的になってしまう、ということが、言いかえればつまり、私たちの沖縄についての語りが、その語り方にかかわらず常に政治的な場にひきつけられ、そこから自由になりえない、ということが、それがそのまま日本と沖縄との社会的な関係の、ひとつの表れになっているのである。私たちが、沖縄に対する素朴な憧れや、政治的抵抗のエネルギーや、単純な多様性について語ることが難しいのは、日本と沖縄とが、非対称的な関係にあるからである。私たちは、自由に、純粋に、沖縄を好きになったり、沖縄を批判したりすることがとても難しい。私たちは、沖縄について、「単に正しいこと」を述べることが、とても難しいのだ。

著者は最後に、女子大の講義で「隣の大きな公園でひとりでベンチに座って本でも読みたいよね」と話し、「若い女性がそんなことをしたら危険だということをあなたは分かっていない」とパートナーからひどく叱られた、というエピソードを紹介する。自分はある程度若い女性のリスクを理解していたつもりだったけれども、《公園のベンチで本を読むということさえ、私たちが生きるこの社会では難しい人びとが、それも私のすぐ隣にいるのだ》ということに改めて驚愕し、また、どんなに頭では理解したつもりでも《公園のベンチに座るだけでリスクを伴ってしまうような、そういう存在「そのもの」になることはできない》と感じるのだ。

『はじめての沖縄』は、はじめての「沖縄」を考える上でも、はじめての「差別」や「マイノリティ」を考える上でも、とても参考になる本だ。長い本でもないし、専門的な知識が必要な本でもない。ほんの「きっかけ」や「さわり」に過ぎないかもしれないが、最初の一歩を慎重にできるだけ正しい方向に踏み出す、ということは案外難しいことなのだ。

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