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書評 『貧乏人の経済学 もういちど貧困問題を根っこから考える』 A・V・バナジー& E・デュフロ ②

第一章は、前回の記事で述べた通り、「援助推進派」と「援助懐疑派」という対極的な二つの考え方を示し、「貧困の罠」というものが本当に存在するのか、という疑問に対し、「ランダム化試行(RCT)」という手法で現実的なアプローチで検証する方向性を示している。

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レビュー・経済書 『貧乏人の経済学 もういちど貧困問題を根っこから考える』 A・V・バナジー & E・デュフロ ①

2019年ノーベル経済学賞を受賞したMITのアビジット・V・バナジーとエスター・デュフロによる共著。同じく2019年にノーベル経済学賞を受賞したハーバード大学のマイケル・クレマーと共に、貧困問題に「ランダム化試験(RCT)」の手法を取り入れて、実践的な解決法を導入した功績を認められた。バナジーの配偶者であるデュフロが、ノーベル経済学賞発表以来の最年少(49歳)、女性としては二度目の受賞(女性初の受賞者はエリノア・オストロム)となったことも、大きな話題となった。

ノーベル賞に評価されるきっかけとなった「ランダム化試行に(RCT)」ついて興味があり読み始めたが、理論的な解説は殆どない。RCTとは、元々医薬品開発などで用いられてきた「できるだけ条件を揃えたサンプル群を無作為に選び比較して効果を検証する」という方法である。これを、貧困問題に取り入れて実践的な研究を重ねたという功績を認められたのだ。言葉で言うのは簡単だが、相手は、環境がきわめて劣悪な最貧困層の人々であり、この地道なフィールドワークに多大な時間と労力が必要だったことは容易に推察できる。RCTについては、国立環境研究所・社会環境システム研究センターのHPの記事が分かりやすくて参考になる。

この本自体は、経済理論ではなくて、そういうRCTを使って実際に得た見地に基づき、貧困問題を総括的に捉えたものである。とても平易な言葉で書かれており、数学や経済学の知識は殆ど必要ない。そういう言葉や文章自体が、著者たちの実践的で現場を重視した研究態度をよく物語っていると思う。タイトルの「貧乏人の」というところも、初め、おや、と思った。「貧乏人」なんて、あまりお体裁の良くない言葉ではないか。普通の経済書なら「貧困の」というところだ。現代を見ると『Poor Economics』とある。「Poverty」ではなく「Poor」なのである。抽象名詞の「貧困」ではない、「貧しい生きた人々」の「経済学」だということで、訳者も敢えて『貧乏人の経済学』としたのだろう、と合点がいった。

文章は実に優しいが、ここ二十年くらいの経済学のトレンドを踏まえて検証しているところが、この本の実に面白いところだ。著者たちはまず、「援助推進派」と「援助懐疑派」の二項対立的思考法に疑問を呈す。これについては、訳者である山形浩生氏のあとがきが非常にざっくばらんでわかりやすいので引用しておこう。

著者たちはまず、援助の現場でも理論でも常に登場する、二つの大きな発想を提示する。大ざっぱに言えば、援助は基本的に無駄どころか有害、という発想と、ドーンと援助しないと貧困は解決しない、という発想だ。

前者の考え方では、援助は途上国の人々の自主性を奪い、ひどい言い方をするとクレクレ厨にしてしまう。基本は人々のやる気と自助努力と主体性に任せ、自由市場による発展にどうしても必要という部分だけ支援しましょう、という考え方。貧困を援助で助けてやろうなどというのは、上から目線の先進国の傲慢だ、ということになる。これはウィリアム・イースタリーなどの主張する議論だ。

一方、後者の考え方かれすれば、そんなこと言ったって、今まで自主性に任せておいたら貧しいままだったから困ってるんじゃないか、ということになる。貧乏な国へ行けば、教育も病院も機械を買うお金どころか機械を売る商人も、電気も情報もあれもこれも何もない。やる気があっても、どうしろってうの?・・・だから一気に環境を整えてあげよう。そうしたら、あとはやる気でも主体性でも自由市場でも活躍する余地ができようってもんじゃないか。これはジェフリー・サックスの、ビッグプッシュ論となる。

本文の中でも、「援助推進派」代表のジェフリー・サックスと「援助懐疑派」のウィリアム・イースタリーの名前は何度も出てくる。訳者の山形浩生にいたっては、《本書でかなり単純化した形でボケ役に使われているイースタリーやサックス》とまで言っているくらいだ。

ジェフリー・サックスについては、私も10年くらい前に『貧困の終焉 2025年までに世界を変える』を読んで衝撃を受けた。(ブログ記事の日付は今年になっているが、実際には10年ほど前の記事を再掲載したものである)特に、アフリカで猛威をふるい貧困の大きな一因となっているマラリアについての指摘は、サックスの巧みな文章と共に非常に印象的だった。ご興味のある方は、過去記事に引用があるので是非ご一読願いたい。

蚊帳を配布する、という実に簡単な予防法でマラリアが防げ、何百万人もの命が救われ、貧困から抜け出す助けとなるなんて!なぜ、すぐにでも援助しないのか!当時、私も、義憤と興奮を感じたのを覚えている。ところがどっこい、なのである。ケニアの実験によれば、蚊帳を無料配布して人々の生活が実質的に豊かになっても、蚊帳の購入確率(ものすごく安い)は殆ど増えないという。

言い換えれば、蚊帳を無料で配布しても、次の世代が蚊帳の下で確実に寝るようになるどころか、次の世代の子供たちで蚊帳の下で寝る割合は47パーセントから52パーセントに増えるにすぎません。これではマラリアの根絶など無理も当然です。

「蚊帳を配布して使わせる」という、たったそれだけ援助ですら、現実には、十二分に機能していない、ということが、本書のRCTを使って得た結論なのである。ここで重要なのは、マラリア対策の効果云々ではない。実際にマラリアを撲滅した地域は、そうでない地域と比べて子供達の生活状態が改善し、所得も増え、長期的な貧困現象をもたらしていることは、本書でも認めている。しかしながら、その対策が単に「蚊帳をばらまく」ということだけではダメだ、ということも分かってしまったのである。「蚊帳を無料配布して使わせる」というレベルのことすら、単純に援助を押し付けても機能しないのであれば、「予防接種を受ける」とか「清潔な水を使用させる」とかいうレベルはさらに難しくなることは想像に難くない。貧困の原因が正確に分析できても、その対処法、援助の届け方というのは実に難しい問題なのだ。

こうなると「援助懐疑派」が俄然元気になるわけだが、本書の主張は、だからと言って、自由放任主義に走りましょう、ということではない。なぜ、その援助方法がうまくいかないのか、うまく届けるにはどうしたらいいのか、それを、地道なフィールドワークで検証しよう、という立場なのである。もっと言えば、「実際に貧乏なひとたちの現場で何が起きていて、貧乏なひとたちが何を考えて動いているのか理解しよう」ということになる。そして、ここには、やはり昨今の経済トレンドである、「行動経済学」的な考え方も導入されている。

「行動経済学」は、人間の心理や感情的な側面から経済を分析する手法で、経済が必ずしも合理的に動くものではないことを証明した。日本でも、ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カールマンの『ファスト&スロー』や、スティーヴン・D・レヴィットの『ヤバい経済学』などが話題となって、ご存知の方も多いだろう。人は「問題を先送りにする」とか「目の前の誘惑に負けてしまう」とか、しごく当たり前のことなのだが、その行動原理は貧乏な人たちにも同じように働いていて、しかも、それが一次的な欲求が満たされている私たちよりもずっと強く逆らい難いものになっているケースが多い、ということが、本書では繰り返し主張されている。

もう一つ、直接経済学のトレンドというのとは少し違うが、途上国援助という側面で大きなトレンドであった「マイクロファイナンス」について着目しているのもこの本の面白いところだ。「マイクロファイナンス」については、2007年にグラミン銀行のムハマド・ユヌス氏がノーベル平和賞を受賞したことで一躍話題になった。私も、ちょうどジェフリー・サックスを読んでいた頃、マイクロファイナンスについても知り、当時金融機関に勤めていたこともあって、「資本主義の理論で資本主義の犠牲者を救う」的な発想が素晴らしいと思い、『ムハマド・ユヌス自伝:貧困なき世界をめざす銀行家』など感動して読んだ記憶がある。

しかし、本書ではここでも「ところがどっこい」になってしまう。マイクロファイナンスは、その業界の人たちが信じるほどには、劇的な貧困の撲滅に役立っていない。マイクロファイナンスの利用率はきわめて低いままにとどまっているし、それによって女性が力や発言権を得たり、人々が新規起業したり、生活改善したりして、革命的な変化を起こしているというデータは得られていない、と。

著者たちは マイクロファイナンスを全面否定しているのではなく、《いまのところはまあまあの成果》を出しており、《貧困に対する戦いにおける重要な道具の一つという地位を正当に得た》のだ、と述べている。ただ、《多くの貧乏な人はお金が借りられても、事業を始める意欲も能力もない》のだし、《マイクロ融資が導入されても高利貸しの利用率はほとんど減りません》。マイクロファイナンスは、貧困撲滅の特効薬ではない。なぜそうなのか、そして、もっと効果的な援助にするためにはどうするべきか、本書の第2部の第7から9章にかけ、 ファイナンス、貯蓄、起業と仕事、という観点から分析している。

このように、本書は、ジェフリー・サックスのような「援助推進派」(その元をたどれば、先進国の植民地主義やグローバル資本主義が貧困の根源であるとするスティグリッツらの考え方があるかもしれない)、それに対抗するイースタリーのような「援助懐疑派」、「行動経済学」そして「マイクロファイナンス」など、昨今の主流経済学と開発経済学のトレンドを踏まえた非常に知的に興味深い本になっているのである。

少々長くなるが、次の記事では、本書の構成に沿って概要を記録しておきたい。


書評・エッセイ 『太宰婚 古本カフェ フォスフォレッセンスの開業物語』 駄場みゆき

新しい本屋のかたちに興味があって、大井実『ローカルブックストアである 福岡ブックスキューブリック』や辻山良雄『本屋、はじめました』などの本を読んでいるが、こちらは新刊本屋ではなく、東京・三鷹で古本屋+カフェの形態で開業した駄馬みゆきさんのエッセイである。

タイトルの「太宰婚」とは、太宰治好きが縁となり、桜桃忌に開催された太宰治関連ブログのオフ会で、太宰治の墓前で現在の伴侶に出会ったという著者のエピソードを元にしている。店名の「フォスフォレッセンス」も、太宰治の短編小説に由来しており、開業ストーリーというより、全編に著者の太宰治愛エピソードが溢れた、個人的エッセイという感じである。

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書評・小説 『結婚しよう』 ジョン・アップダイク

あいも変わらずロングアイランド好きの私に、インスタグラムのフォロワーさんが紹介してくださった本だ。こちらは、ロングアイランド自体ではなく、ロングアイランド峡を挟んだコネチカット州の海沿いにある架空の街、グリーンウッドを舞台にしている。

タイトルからの予想に反して、不倫の物語である。しかも、お互い子供が3人ずつもいる、ミドルアッパークラスのカップルのW不倫。ロングアイランドを望む浜辺での美しく官能的な逢引シーンから始まるが、2組の夫婦の一夏のゴタゴタを綿密に綴ったメロドラマとも言える。冒頭のシーンで、主人公のジェリーが、モラヴィアの小説を批判しているのが、実にシニカルで印象的だ。

「あまりね。嘘っぱちだからってわけじゃないんだがね。何というか・・・」彼は本を手の中でゆすりかたわらにぽんと放りだしたー「実のところ、わざわざ小説にするまでもない話だと思うのさ」「でも、わたしはいいと思うわ」「きみはね、何でもいいとすぐ思うんだ、そうじゃない?だって、モラヴィアはいいと思うし、なまぬるいワインはいいと言うし、それにセックスだってすてきだ、と思っている」

もしかしたら、サリーが読んでいたのは、モラヴィアの『軽蔑』だったのではないかしら、と思うくらい、この小説も、同じように不倫の男性がうだうだする話である。

モラヴィアの小説と違うのは、主人公の男性ジェリーに漂うヒロイズムだ。アップダイクは比較的最近の現代作家だけれど、主人公ジェリーのヒロイズムや独特の女性像は、フィッツジェラルドの小説と同じくアメリカ的なものを感じた。

「いいや、違うよ、それは。きみが悪いんじゃない。悪いとすれば、それはぼくだ。ぼくは男で、きみは女だ。すべて事をうまく処理するのは男のぼくの役目だ。それなのに、ぼくはそれをやれないんだ。きみは善い人だ。素晴しい女だということをきみは自覚していなくてはいけない。自分が素晴らしい女だということをきみは知ってるかい?」

見よ、この徹底したヒロイズム。男たるもの、こうでなくてはいけない。男たるもの、強くあり、うまくことにあたり、そして世間と女を御するものなのである。このヒロイズムが、女性を徹底してヒロイン化し、偶像化し、その性的魅力に極度に心酔して振り回されるとともに、ほとんど定型化されたような、ヒステリーで神経症な女神を産んできた。フィツジェラルドの『夜はやさし』や『グレート・ギャツビー』にあるようなヒロインたち、そして、この小説のサリーのような女性たちである。ヒーローである男たちは、こうしたヒロイン達にかしづき、さんざん振り回され、そして最後は彼女たちを犠牲にして旅立ってゆく。

アメリカはウーマンリブの国、日本よりもずっと女性差別が少ない社会を実現しているように見えるけれど(事実そうだけれど)、こういうヒロイズムとヒロイニズムが根付いていた社会が、そこまで行き着くには、フェミニスト達の並々ならぬ苦闘があったであろうなあ、と思うのである。そしてまた、意地の悪い私は、きっとこの神話は消え去ったのではなくて、捻じ曲がって歪んで、今もアメリカ人たちの深層心理と社会生活の奥底に横たわっているんだろうなあ、とも思う。

アメリカ文学お定まりのヒロイズムの他に、もう一つアメリカ的で面白いのは、キリスト教との関わりである。主人公のジェリーやヒロインのサリーは、姦通については何の疚しさも感じないが、それでも、キリストについての一種の敬虔さを持っている。特に、ジェリーは、サリーとの愛欲を優先して妻子を捨てる決意をするような非情さを持ちながらなお、自身の魂の救済について思い悩んでいる男である。むしろ、宗教の不在が、ジェリーとルースという夫婦の不和の元凶になっているのである。この小説もその登場人物も、決して宗教的ではないのに、でも、やっぱりキリスト教はそこにある。これもまた、日本人には中々理解しがたい、アメリカの一つの側面だと思う。