書評・小説 『ポップ1280』 ジム・トンプスン


よく言えば楽天的、というよりもむしろ、能天気な性格である。どうせ人生が儚い夢なのであれば、その間はできるだけ、美しく楽しいものだけを見て生きていたい、とついつい願ってしまう、弱い人間なのである。

だから、あんまり重たすぎてシリアスな作品は尻込みしてしまう。露悪的な作品は特に嫌いである。確かに、世界も人間も醜悪な面を持っている。そちらを掘り下げたら、ネタには事欠かないんじゃないかと思うくらい。だからこそ、一方的に人間の醜悪さばかりを取り上げた作品は芸が無いではないか、と毛嫌いしてしまうのだ。

あんまり現代作家の悪口を言いたくはないのだが、そういう意味で、今の日本の現代作家の作品は好きじゃないものが多い。「世界はこんなに醜悪で絶望的である」と、一方的に言い切っておしまい、みたいな作品。幼稚だな、とさえ思う。まるで、子供がわざと「う○こ」と汚い言葉を連発したり、治りかけた瘡蓋を何度も何度も剥がして自虐的な気分に浸ってるみたい。

だから、「いやミス」とかいうジャンルも正直嫌煙していたし、このジム・トンプスンが代表するような、「ノワール」作家の作品にはできるだけ近づかないようにしていた。

そんな私がジム・トンプスンの作品に興味を持ったのは、本当に偶然だった。しかも、勘違いというか、名前違いの偶然。松本清張の『熱い絹』の記事で、タイのシルク王、ジム・トンプソンの話を書いた時、ミステリー好きの男性フォロワーさんから、シルク王のジム・トンプソンは知らないが、小説家のジム・トンプスンならよく知ってます、とコメントいただいたのだ。ジム違いだが、こちらはそんな小説家聞いたことがない。

で、ググってみると、ますます興味が湧く。主に、1940〜60年代にアメリカで作品を発表した小説家で、脚本家としても活躍。生前はほとんど評価されず、全盛期に契約していた出版社にもファンレターは一通も来ず、葬儀にはほとんど人が参列しなかったとのことだが、後に評価され、90年代には『ゲッタウェイ』と『グリフターズ』の2作品が映画化された。現在ではノワール作家として大きな評価を得ており、評論家のジェフリー・オブライエンは、彼のことを「ダイムストアのドフトエスキー」と評しているとか。『ゲッタウェイ』も『グリフターズ』も結構好きな映画なのだが、原作者の名前など全く知らなかった。

で、誰に強制されたわけでもないのに、気が進まないけど読んでみるか…ということで恐る恐る、こちらの代表作を読んでみた次第。

読んでみて…がツンと頭をやられた感じ。黒い、黒過ぎる。パルプ・ノワールってのは聞いてましたけど、予想以上のブラックさに呆然とする。

やや推理犯罪小説的な体裁をとっているものの、あんまりミステリー的な要素は薄い。いちばんミステリーなのは、主人公を中心とした人間たちの暗い心理なのかもしれない。初めは、呑気でやや自堕落な、一見お人好しそうにも見える、主人公の男性。その男が明らかにしていく、脈絡のない残虐性、鬱屈し捻じ曲げられた諦念、身勝手な欲望…それから彼を取り巻いていく、アメリカの片田舎の白人社会の欺瞞、体裁だけを取り繕った卑しさ、、、

主人公は本当に卑小な欲望と自己保身だけに拘泥して、顔色ひとつ変えずに場当たり的な殺人を繰り返していく。周囲の人間たちにも、温かな真情といったものは微塵も感じられない。とてつもなく怖い。ダークで救いがない。

だけど、ここまでダークな作品を、ほとんど一気読みしてしまったのだ。怖いなあ、と思いながらもやめられない。描かれる世界はとつつもなく醜悪なのに、どうしても気に掛かってしまう。そんじょそこらの露悪的な幼稚な作品とは一味違う、麻薬的な魅力がある。

思うに、世界の醜悪さと向きあうには、やっぱりそれなりの覚悟が必要なのだ。なんか、汚いところを表面的にぐちゃぐちゃとやって、やりっぱなし、というのは、読んでるこっちも、読後にやられた感だけ残ってスッキリしない。世界がここまで黒いと言い切るからには、深い深いところまでどんどん掘っていて、もう自分が二度と地上には戻れないのではないか、というところまで行ってしまうくらいの覚悟が必要なんである。別に、芸術家や作家が破滅的な人生を送るべし、と言ってるわけではない。でも、それなりの覚悟は必要だ。特に、真正面にそれと向き合って表現しようとするならば。

ジム・トンプスンが描くのは「キリストなき後の世界」だと言われる。確かに、とてもとても怖いラストで、主人公の男性は、自らをキリストになぞらえている。それは単なる狂気とか絶望とかでは片付けられない不気味さを持っている。キリストはこの無慈悲な世界を救済できるのか?むしろ、無慈悲な世界をもたらしているのは、他ならぬキリストではないのか?という問い。そういう意味では、ジム・トンプスンの問いかけは、ドストエフスキーら西欧の文豪が問い続けてきたものにつながっている。それは、キリストという救いを生まれた時から心の中に育ててきた、その裏返しなのかもしれない。

私が、露悪的な日本の近現代の小説に、物足りなさを感じてしまうのも、ここに理由がある。世界の醜悪さや絶望を糾弾しても、どこか狭い自分だけの世界で終わっているようなところが、どうしても残るのだ。家族とか友人とか、はたまた会社や社会制度とかに裏切られた、というのでは、裏切られ方が小さい。キリストに、神に、裏切られた、そこまでの大きな傷を背負って初めて、真正面からそれを描く意味があるような気がする。西欧文化を礼賛してるわけではない。文化が違えば、描くものも描き方も変わって当然だから。でも、世界と人間の醜悪さを描こうと思うのなら、もっと、とことんやらなきゃいけないのではないか、と私は思う。

だって、それはいつも私たちのすぐそば、足元に底のない巨大な穴を開けて待ち構えているのだから。その穴をちょっと覗いてまた日常生活に戻る、なんてことを繰り返したくないではないか。なぜ、その穴に飛び込んでいますぐこの無意味な生を終わりにしないのか、という問いを突きつけられたまま、それには一生答えなんて出ないんだろうな、と薄々承知のまま、何事もなかったように、瑣末な毎日の出来事に向かい合っていくなんて。

怖い作品というのは、私のように穴の方を決して見ないようにしている人間にまで、まざまざとその存在感を示してくる、そして、こういうことを訴えかけてくる。この作品を読んでそう思った。だから、また読みたい、なんてかけらも思わないのに、作者の他の作品をAmazonのカゴに入れてしまう、そんなことが起きるのである。

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