『美術は宗教を超えるか』 宮下規久朗 佐藤優 ①


美術は宗教を超えるか

宮下規久朗氏と佐藤優氏の対談。宮下規久朗氏は、『美術の力』『聖と俗 分断と架橋の美術史』などこのブログで何度も取り上げている美術史家だし、佐藤優氏は衝撃的な『国家の罠』を読んで以来、『自壊する帝国』や『読書の技法』などの著書の他、コラムなどでも注目している。政治オンチの私には、佐藤優氏の政治的な主張や元外務省員としての言動より(まあ、それも興味深いのだが)、同志社大で神学を専攻して、投獄中は聖書を一から読破した、というエピソードの方が面白かったりした。この二人の対談なんて、読まないわけにはいかない!と、普新刊に手を伸ばさない私がついつい購入してしまったわけだ。

タイトルに惹かれたのもあるが、対談をまとめたものなので、体系的な思索や理論が展開されているわけではない。むしろ、お二人の教養とテーマの深さからして、話題はあっちゃこっちゃに飛ばざるを得ないし、編集する方も中々大変だったのではないかと思う(笑)

そんな中でも、キリスト教における美術と聖書を「イコン」という切り口で捉えて、度々言及しているのが印象的だった。「イコン」とは「聖像」という意味だが、偶像崇拝を禁ずるキリスト教では、「イコン」は神とキリストと繋がるための「窓」として、崇敬の対象になってきた。

佐藤

彼らは、プロテスタントが唯一絶対とする聖書主義も、じつは「テキスト」を崇拝するという意味で「偶像崇拝」であり本来の聖書に対する向かい方は東方正教会の、イコン崇敬と同じなのではないか、と考えました。信仰を聖書のみに基づくとするプロテスタントも、じつはイコンのように聖書という「窓」の背後を崇敬しているのだ、と。この見方には説得力があります。

佐藤優氏は、聖書もまたイコンの一つであり、プロテスタントの「聖書至上主義」について鋭い指摘をしている。

キリスト教と言えばまず聖書ありき、と思ってしまいがちだが、それは私がプロテスタント文化を色濃く反映した英米文学に親しんできたからだろう。佐藤優氏によれば、カトリックや正教会は信徒が旧約聖書を読むことを勧めない、と言う。宮下氏も《じつは、イタリア人も意外に聖書をあまり読みません。プロテスタントは聖書を第一に考えますが、カトリックの支持者が多い地域では聖書を重視しない傾向がある》と語っている。

佐藤

プロテスタントには、イコンの神学のような難しい話がよくわからなかったのだと思います。プロテスタントの宗教改革は当初、無知蒙昧な運動でした。それが機能し、拡大するようになったきっかけは、科学の発達と啓蒙主義です。(略)他方、プロテスタントの啓蒙主義に対する態度は合理的でした。プロイセンのプロテスタントの神学者フリードリヒ・シュライエルマッハーは、宗教の本質は直感と感情であると考え、神の場を「心の中」に設定します。この考え方は、啓蒙的理性とたいへん折り合いがよかった。

佐藤

プロテスタントは、聖地を巡礼しない代わりに「心の場」を重視します。すると、心理作用と神の区別がつかなくなってしまう。これは自己絶対化の発想に繋がります。キリスト教が忌避する自己義認(本来、神によって人が義とされるのを人が自ら義とすること)のリスクが高い。

この佐藤氏の指摘は、啓蒙主義とキリスト教(この場合は主にプロテスタント)との根深く複雑な関係というのか、植民地化されかかった第三世界側の者からするとななぜか感じてしまうモヤモヤ感というのか、そういうものを解く一つの手がかりになるなあ、と感じた。

佐藤

カール・バルトは、マルクスとほぼ同じ趣旨で宗教批判を行っています。端的にいえば、人間は自分の願望を起点に教義を組み立てて宗教にしている、というもの。それは「人間から神へのベクトル」を意味しています。

確かに、神の場が個人の心の中に設定されたことで、個人の思想や心情と神とが同一化してしまう、啓蒙主義時代以降の西欧の宗教と思想史には、そういう側面があると思う。そして、デカルトもカントも、あるいはアダム・スミスも、元々はその中心に「神」があったはずなのに、いつしかその個人の思想や論理だけが、まるで「神」の代わりをするかのように大きな存在となってしまった。

このプロテスタントの「聖書」=「テキスト至上主義」というのは、中々客観的に指摘されない部分でもある。プロテスタント文化は、啓蒙主義と植民地主義と共に、都合よく西欧化されたブローバル文化の奥深くに根付いているからだ。それは、宮下氏が対談の中で言うように、《アメリカのエスタブリッシュメント層であるWASPから見てカトリックは学歴や教養のレベルで劣るという偏見もある》という事情も絡んでいる。

そういう背景だからこそ、佐藤優氏が、聖書をとことん読み込み、神学的な観点から改めて聖書とは絶対的なもの=神ではない、と論じる部分は、とても興味深く納得感がある。2世紀に異端とされたマルキオン派とグノーシス思想の関連性、意図的にユダヤ教の聖典である旧約聖書を取り入れた点などを取り上げ、聖書は《複合的プロセスから成り立っており、事前に理論やプランをもって編集されたものではない》《歴史上、さまざまなバージョンが存在》した、と論じている。

宮下氏の《キリスト教の教義は、聖書に収められた四つの福音書だけでは成り立ちません。パウロがそれらを首尾一貫したものに編纂し、体系化したのです》という言葉に対し、佐藤優氏の語った次のような内容も、なるほど、と思わず唸ってしまうのであった。

佐藤

「キリスト教の創始者は誰か」と出題された場合、高校のテストや大学入試では「イエス・キリスト」が正解。ところが、大学の神学部あるいは大学院神学研究科の入試で同じ回答をすると、誤りです。

つまりキリスト教の教祖はイエス・キリスト、開祖がパウロなのです。

話が少々前後するが、この後で、佐藤氏は、パウロがいかに狡猾なマキャベリストで、人々に対して高度な知的操作を行うことができたか、そして、《プロテスタントの主流派は主知主義の傾向があり、パウロとの親和性は高い》と述べているのである。

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