『山椒大夫』 森鴎外


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またまた森鴎外である。今更ながら鴎外先生に首ったけである。

有名な説教節の演目の一つ『さんせう太夫』、子供向け説話としては『安寿と厨子王』として知られる作品を基にしたごく短い短編。

全く予備知識無しで読み始めたのだが(私は、エッセイや評論と違い小説はできるだけ作品や作者の予備知識無しでまず読むようにしている)、途中でおや、と思った。話の最後の方で出てくる山椒大夫への扱いになんとなく違和感を覚えたのである。人攫いから買い集めた人々を奴隷のようにこき使い、安寿と厨子王をさんざん苦しめた大悪人の山椒大夫だが、丹後の国守となった厨子王が、人身売買を禁じて山椒大夫たちの奴婢を解放してやると、初めこそ大きな損失を被るものの、その後は返って商売が盛んになり一族はいよいよ富み栄えたというのである。これがどうにも気になって、読後に色々ググッてみれば、やはり、原典はこの部分が全く異なっている。それどころか、元々の『さんせう太夫』では、厨子王は山椒大夫とその三男坊にかなり残酷な刑を処す復讐劇が繰り広げられるらしい。

さらに、厨子王の復讐劇と共に、元の説話から大きく外れている箇所として、厨子王を逃してやった後の安寿の行方が挙げられていた。森鴎外は、厨子王を逃した後、安寿をきれいに身投げさせてしまうが、元の説話では、その後山椒大夫らによる安寿の生々しい拷問シーンがあると言う。説経節は、中世に興った民間芸能で、その観客には下層の者も多かったという。物語にエログロ的要素を求める民衆の姿は古今東西同じであるから、美しくうら若い安寿の拷問と、大円団の厨子王の復讐劇というのは、この演目の二大ハイライトでもあったろう。森鴎外がその二大ハイライトを意図的に消したのは明らかだ。

で、問題になるのは、森鴎外がこの物語を換骨奪胎して表彰したいものは何だったのか、ということだ。私は、それは「自己犠牲する女性の姿」に尽きると思う。この短い物語で、人間として印象的なのは3人の女性だけである。物語の初盤で、幼い頃から育てた安寿と厨子王が目の前で攫われたのを知って身を投げる乳人の姥竹、中盤で言うまでもなく安寿、そして物語の最後、盲目の老婆となっても我が子への恋しさを歌い続ける母親の3人である。

なかでも、安寿の姿は印象的であり、森鴎外は、元の物語の2大ハイライトを消してまで、いや消してこそ、この悲劇のヒロイン安寿の姿を際立たせたかったのではないか。民衆が喜ぶエログロ要素の代わりにクローズアップされるのは、安寿の匂い立つような美しさとそれゆえに悲劇度が増す自己犠牲の傷ましさである。様々な辛苦と神がかり的啓示の末に、突然成熟を始めるうら若き安寿の姿。密かに二人に同情的な山椒大夫の次男の優しささえ、その安寿の美しさに惹かれたゆえではないかと思うのはうがった見方だろうか。厨子王と一緒に山に出たいという安寿に、残忍な山椒大夫とその三男は「そんなら垣衣を大童にして山へやれ」と言い、彼女の豊かな美しい黒髪を切り落とさせる。あはれ、禿となった頭で弟の手を引き山を登る安寿の顔は、毫光のさすような喜びをたたえている。このくだりなど、森鴎外の完全なる趣味の世界で、髪を切り落としたのも彼の創作なのではないかと思ってしまう。エログロではない代わりに十二分にエロティックだ。ここに役極まった彼女はむろん、きれいなまま舞台を去らなければならない。その後の残酷な拷問など必要ない。

こうやって考えると、鴎外が安寿の拷問シーンだけでなく、厨子王の復讐劇をカットしたのも肯けるのである。安寿を中心とした自己犠牲の女性たちの物語で、厨子王はただの駒である。駒に感情移入は必要ない。この物語では男たちは、大悪人か、存在感のない駒かのどちらかである。この物語において、安寿と並ぶ主役級であるはずの厨子王の存在感の無さといったらどうだろう。だが、女性の自己犠牲をめぐるこの物語では、その自己犠牲の対象が何かということ自体は大した問題ではないのである。

それにしても、『舞姫』の記事でも若干触れたが、森鴎外は、現代のフェミニストには格好の餌食になってしまいそうな作品が多い。その読み方はその読み方として面白いのだけれど、もちろん、それでは収まりきらない魅力があって、その偏見や世界観に違和感を抱きつつも物語と文章にぐいぐい惹きつけられてしまう。鴎外先生熱は中々冷めそうにない。

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