ユダヤ系ドイツ人のエルンスト・カッシーラーが、ナチス政権中の亡命先スウェーデンで上梓した『デカルトー学説、人格、影響』からの抄訳フランス語版を全訳したものである。クリスティナ女王への興味から手にとったのだが、とても示唆に富む面白い本だ。原書のドイツ語版には、デカルト哲学そのものを取り扱った別部があったようだが、フランス語版は、それを省略し、コルネーユおよびクリスティナ女王との比較関連性からデカルトを語った部分に限定されている。
まず、コルネーユとデカルトの関連性を探りながら、デカルト思想の中核を浮き彫りにし、その共通点として、「自由意志の尊重」を挙げる。
自由の問題はデカルト思想の中核である。より適切に言えば、「デカルト哲学の魂」とも定義づけられようが、これにはそれ相当の理由がある。・・・彼は人間の自由を、内的経験という単純な証拠に基づいて断定しており、これに勝る証拠はないし、必要でもないと信じている。
自由について、あえて彼は、神と人間、創造主と「造られた」ものとのあいだにある柵を否定して取り払う。クリスティナ女王に宛てた第一信のなかで、彼はこう書いている。「自由意志はわれわれのうちに存在し得る、それ自身で最も高貴なものでありまして、ある意味ではわれわれを神に似たものとし、神への従属から放免してくれるものなのです」・・・自我の重心は、この道徳が示すように、思惟のなかにではなく、意志のなかにある。なぜなら意志は、われわれが絶対的に所有している唯一のもので、失うことがあり得ないからである。(P24〜25)
デカルトとコルネーユに直接的な交流や影響を及ぼすような関係があったことを示す歴史的な証拠はないが、デカルト哲学とコルネーユの作品には《心理的、道徳的親近性》が認められるとカッシーラーは言う。
彼(=コルネーユ)にとって、デカルトにとってそうであったように、真の偉大さとは意志のもつ最大量のエネルギーと結びついており、この意志の純粋な強度が、意欲の道徳的品性とは別個の価値をもつ。(P34)
有名な「オイディプス王」をモチーフにしたコルネーユの代表作『エディップ』と、ソフォクレスの『オイディプス王』を比較して語っている。
ソフォクレスのの『オイディプス』では、宿命が突如として人間に打ってかかり、怪力をもって人間を押し潰す。宿命が何を意味するかは人知のあずかり知るところではない。人間にとって、不可解で非合理な力である。コルネーユ劇は、このような人知を越えた戦慄を知らない。『エディップ』のなかでさえ、悲劇の主人公は、絶対に不可解な宿命に征服されてはならないのである。主人公は運命に立ち向かい、自分の運命を受け入れ担っていくことにより、自我の根源的な力を把握する。自我は、その存在の核心である思惟と意志とにおいて、運命のもつどのような力よりもみずからが上位にあることを知るが、このような自我の栄光をもってこの作品は幕切れとなる。(P22)
丹下和彦著『ギリシア悲劇』を読んでわかるように、ソフォクレスの『オイディプス王』は、確かに人知を超えた神の試練に対抗する人間の「知」としてのアイデンティティを暗示してはいる。しかし、最終的にそれが勝利するという印象はない。むしろ、その悲劇さが前面に押し出されていると言えるだろう。
このようなデカルトと17世紀的思想の特異性は、直接の交流関係がはっきりとしているクリスティナ女王に関しての章でさらにはっきりと明示される。
われわれは誤謬の原因を神に帰すべきではない。もしそうだとすれば、もはや真理の神ではなく、虚偽の神になるであろうから。神の本性はもはや完全でも神聖でもなく、限定された邪悪なものとなろう。このような不合理を避けるために、われわれは「純粋な理性の光」の権利を再認識すべきである。これを信じないのは、神を信じないことに等しいであろう。デカルトによるこの「神の誠実」の理論をクリスティナは実践した。(P67)
彼女は次のように語ったという。各種の宗教のなかで、一つは真であるはずだ。なぜなら、もし神が、人間の心に宗教への渇望を植えつけておきながら、それが真に満たされるのを拒むとすれば、神は暴君ということになろうから。(P66)
デカルトは楽観主義者であるが、本性(=自然)に関する楽観主義ではなく、理性に関する楽観主義である。彼にとって真の自由と真の幸福とは、感覚の解放にあるのではなく、自律的で責任ある意志によって感覚を統御することにあるのだ。(P101)
カッシーラーの指摘は非常に鋭い。しかし、ニーチェが「神は死んだ」と言ってから100年以上も経っている私たちからすれば、デカルトやコルネーユやクリスティナ女王たちの楽観主義は、理性に対してだけではなく、神そのものの存在に対して、と言い換えても通じるように思う。もちろん、そこには《われわれの論理的および数学的知識と、形而上学的知識の一部分とを証明している「理性の純粋な光」》をとことんまで追求した、という前提がある。
しかし、それでもなお、現代の私たちにとって、デカルトのこの「神の誠実」ほど、飛躍するのが難しく感じられるものはないのではないか。そこまで理性を信じられるというのはまた、まず、そこに「神」があるという強い確信と表裏一体なのである。理性と神とが、むしろ相反するもののように扱われて久しい現代では、この感覚は中々掴みにくい。だが、もちろん、「それは300年前の戯言だ」と片付けられない問題がそこにあるからこそ、デカルトが興味深いのであり、17世紀の思想を問い直す意味があるのである。
カッシーラーは、コルネーユとクリスティナ女王を巡る考察の中で、17世紀の大きな思想運動として「ストア主義の復興」の存在を強調し、また、「英雄像」という焦点で共通項を結んでいる。
つまり、宗教戦争が苛烈を極めた時代を経て、一種の「宗教的普遍主義思想」のようなものが起こった。それは、神性よりも人間の理性やモラルに価値を置く道筋をつくったと言える。そして、道徳哲学の領域におけるストア主義の復興によって、さらに強められたのである。
デカルトがクリスティナ女王に献上した『情念論』において、デカルトはストア主義の情念に対しての否定的な見解を脱し、情念を人間の自然なものとして肯定した上で、それを理性と意志とで超克する、という展望を示した。それは、とりもなおさず、理性と意志の完全勝利、《情念に対する熟慮の優越》という英雄的行為の礼賛に繋がった。それを作品として昇華したのがコルネーユ、人生として体現したのがクリスティナ女王だったのである。
「コルネーユの古典劇が描く十七世紀の人間は」、とG・ランソンは書いている、「夢想にふけることができず、感傷というものに欠けていたから、その情念は明確な対象に向かう激しい衝動となる。彼は情念の動揺を楽しむことがない。それを快楽とはしない。情念は人間に行為の目標と力とを授ける。・・・彼が何よりも賞賛するのは、情念を御し、解き放ったり繋ぎとめたりし、状況を利用したり避ける術を知っている理性である。完全な自己統御こそ、彼が生涯かけて実現しようとした理想である。偉人はいうまでもないが、偉人に限らず当時はだれもが意志の人だった。」(P108)
コルネーユの主人公(英雄)を際立たせるのは、情念に対する熟慮の優越にある。・・・最悪の結果が出てもたじろがず、彼らを脅かすものがあっても、その判断は最終的なものであるから、これを撤回することはないと繰返し保証する。この態度はコルネーユ劇ではありふれており、その表現も類似している。「必要とあれば、何度でも同じことをするでしょう」という台詞は、『ル・シッド』にも『ポリュークト』にも出てくる。クリスティナにとっても同様であって、なにごとがあろうとたじろぐことのない「不屈の強靭さ」は無条件の理想であり、ひとたび決定を下した後は、けっして撤退することがない。(P114)
17世紀的な英雄像の考え方として、カッシーラーは最後に、ラテン語の「virtus(徳)」という言葉に触れているが、これは、塩野七生さんの『わが友マキャベリ』や『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』などで展開される「徳」の考え方に通ずるものがあって面白かったので、最後に引用しておきたい。
フランス古典悲劇で用いられる徳vertuという言葉は、今日われわれの用いる意味とは違う、もっと深い意味を持っていた。すなわちこの語はラテン語のvirtus、イタリア語のvirtuに近く、語源からして一種の「男らしさ」の理想を意味した。この男性的感性は、そこに由来する諸々の義務とともにコルネーユ劇を支配し、そこに浸透している。(P116)
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