『遠い朝の本たち』 須賀 敦子


思わぬ待ち時間ができたので、本棚から適当にこの本を引っ張り出し、近所のカフェへ。

須賀敦子さんが、思い出の本と共に自分の友人や家族や青春時代などのエピソードを語った本で、一章一章はかなり短く、持っているなかでは一番軽めのものを選んだつもりなのに、やっぱり、あっという間に彼女の文章に引き込まれて、油断するとウルっとさせられてしまったり、あぶないあぶない。

須賀敦子さんの本を読むのは結構久しぶりだったが、改めて読んで、彼女の文章は本当に過不足がない、というか、格調高くきりっとしているところと細やかで美しいところが両立していて、読み手がここちよく浸っていると、いきなり率直な言葉が真っ直ぐに心の中に切り込んでくるようなところがあるなあ、と思った。

特に、巻頭の二章と巻末の二章は、親友の「しげちゃん」と実父の思い出がそれぞれ語られていて、本の最後まで来ると最初の話がああそうか、と繋がっていところがあって、それがいっそう著者の思いの深さを感じさせる。

しかし、父におしえられたのは、文章を書いて、人にどういわれるかではなくて、文章というものは、きちんと書くべきものだから、そのように勉強しなければいけないということだったように、私には思える。そして、文学好きの長女を、自分の思いどおりに育てようとした父と、どうしても自分の手で、自分なりの道を切りひらきたかった私との、どちらもが逃れられなかったあの灼けるような確執に、私たちはつらい思いをした。いま、私は、本を詠むということについて、父にながい手紙を書いてみたい。そして、なによりも、父からの返事が、ほしい。

文章としても、本としても、その構成の仕方や緩急のつけ方は、実に見事だと思うのだが、技巧的な感じは一切しない。それは何より、彼女の思いの深さと経た時間とがなせるワザなのかもしれない。

けれど、この本を読んで、少女時代から詩に憧れ、ウンベルト・サバを熱烈に愛し訳した彼女だからこそ、だったのかもしれない、と感じた。

須賀敦子さん自身はこの本で最後まで自分は詩に憧れていたのに詩を書けなかった、と語っているけれど、彼女の散文には詩的な構成力と格調があって、彼女はある意味詩人だったんだよなあ、と勝手に納得したのである。

須賀敦子さんの本を詠むと、「何を書くか」だけではなくて、「何を書かないか」がとても重要なんだ、ということに気付かされる。メッセージを全面に押し出すのではなくて、敢えて書かなかったこと、書かれなかったことを、深い奥の方で重く響かせること。彼女の文章が詩的だと言われるゆえんだろう。

余談だが、今回『遠い朝の本たち』を読んで、もう一つ新たな発見があった。「まがり角の本」でクーリッジの『ケティー物語』という本に触れているのだが、私が小さい頃大好きだった『すてきなケティ』と同じお話だったのだ。須賀敦子さん自身は、このお話の中に出てくるお庭の様子やそれを探検するエピソードが大好きだった、と語っていて、おや、と思った。私にとっては、『すてきなケティ』は、お庭の描写などは印象が薄くて、病気になったケティがお部屋の中を整える様子だとか、続くシリーズ『すてきなケティの寮生活』の木箱に詰め込まれたクリスマスプレゼントの様子だとか、家庭的なディティールが印象的なお話だったからだ。同じ本でも、読み手によってずいぶん受け止め方が違うのだなあ、と改めて思った。

そう考えると、若かりし頃の須賀敦子さんの愛読書は、リンドバーグ夫人やサン・テグジュペリの「夜間飛行」など、冒険家精神に溢れたものが多いようだ。その、根っからの冒険家・探検家の精神が、彼女の人生に対しての真摯な探究心とどこか俯瞰的にそれを眺めることのできる視点の源なのだと思った。

ガリマール書店版の『城砦』が本棚にある。・・・あるページには濃いえんぴつで、下線がひいてあった。

「きみは人生に意義をもとめているが、人生の意義とは自分自身になることだ」

さらに、表紙の裏にはさんであった封筒には、・・・あのころの私の角ばった大きな字体で、サンテグジュペリからの言葉が記されていた。

「大切なのは、どこかを指して行くことなので、到着することではないのだ、というのも、死、以外に到着というものはあり得ないのだから」

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