書評 『竹取物語 伊勢物語 堤中納言物語 土佐日記 更級日記』 池澤夏樹個人編集 日本文学全集03


 

やはり、Instagramのフォロワーさん繋がりで知ったこの本。池澤夏樹さん編集の世界文学全集は過去、モラヴィアの『軽蔑』やポール・ニザンの『アデン・アラビア』など、過去に何度も記事にしているように以前からよく知っていたが、日本文学全集もあるとは恥ずかしながら最近まで知らなかった。

日本の古典は苦手なので今まで敬遠していたのだが、何と言ってもこの本は一目で訳者に惹かれた。

『竹取物語』=森見登美彦

『伊勢物語』=川上弘美

『堤中納言物語』=中島京子

『土佐日記』=堀江敏幸

『更級日記』=江國香織

という、人気作家目白押しのメンバーなのである。

のっけから森見登美彦訳の『竹取物語』が面白くて、古典というのも忘れてぐいぐい読める。『竹取物語』は原文・訳文何度か読んでいるはずなのに、こんなに面白い話だとはついぞ気付かなかった。よく言われているように、前半と後半で話の雰囲気がガラっと変わるのだが、前半のかぐや姫に求愛する男たちのドタバタエピソードの面白いこと。わざと男たちに無理難題をふっかけ、失敗する男たちにざまあみろと言わんばかりのかぐや姫の性格の悪さも秀逸である。この頃の物語に避けて通れない和歌の訳について、

あれこれ考えた末、「恋する男女が交わす、ちょっと恥ずかしいポエム的なものをイメージして現代語訳した。そういうわけで、いささか阿呆っぽくなりすぎたところもあるかもしれない。

と森見登美彦はあとがきで語っているが、この試みはぴったり当たっていると思う。

平安時代の読者たちは彼らの阿呆ぶりに笑い転げたにちがいないし、現代の読者にもせめて「ニヤリ」としていただければ嬉しい。

『竹取物語』や『堤中納言物語』などは物語要素が強いので、現代の読者にも比較的受け入れやすいだろうが、やはり難しいのはこの時代の和歌の扱いである。『伊勢物語』のように、物語よりも先に歌があったようなこの感覚は、現代人には中々馴染みにくいではないだろうか。(詩や和歌の分野が苦手な私には格別そうなのだ)

そういう中で、堀江敏幸の『土佐日記』は、敢えて作者紀貫之による架空の解説書を前後に配置し、本文中にも多くの()書きの訳注を補記して、作者の文学的試みの意図を明らかにする、という工夫をしている。これはもはやただの訳ではなくて、かなり文学的創作に近い(い(完全に別個の作品だとも言える)ものだが、学者の先生には決してできない芸当だし、こういう大胆な試みをするのも、これから新たに日本文学全集を編纂することの大きな意義だろう。私が興味深かったのは、『土佐日記』の主語や視点が一定せずに勝手にどんどん移っていくことで、このことを訳者あとがきでは《奇妙な視点の揺らぎ》と呼んでいたが、これは何も『土佐日記』に限ったことではなく、日本の古典文学全体に、敢えて敷衍すれば日本の文化そのものにある特徴のような気がする。和歌自体が、主語を表さず、また、そのゆえに自動的に主語が入れ替わったりする表現方法なのも、海外文学に親しむ者からすると非常に特殊に感じれるのだ。

最後の江國香織訳『更級日記』も、読みやすく軽快なエッセイとしての作品の雰囲気がよく伝わってくる。この作品になると、歌の訳や解説は殆どいらないほどシンプルである意味月並みなものになっているのも面白い。

『更級日記』も昔古典の授業で部分的に読み、いったい何が面白いのかさっぱりわからなかったのだが、こうして現代語訳で通して読んでみると、従来の歌物語に加えて、具体的な旅行記や宮仕えの様子なども表されている、複合的な面白さが際立つ随筆になっている。今で言えば、学歴も職歴も申し分ないセレブ主婦がSNSを使ってマルチメディア的にライフスタイルを表現するような感じと言うのか・・・(だいぶ違うような)

それはともかく、古典嫌いの私に古典への興味の目を開かせてくれたこの本との出合い、そして、池澤夏樹先生に感謝感謝である。本棚いっぱい問題は全く解決していないのだが、世界文学全集に続いて、日本文学全集も順次揃えていきたい欲求がとまらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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