書評・小説 『TOKYO愛情物語』 森瑤子


1987年初版、森瑤子作目の短編集。「婚約」「結婚」「浮気」の各ドラマを、男と女それぞれの視点から描いて2篇ずつの構成としている。ラストは「離婚 二人の場合」という1篇だけ。

同じエピソードを、男と女で全く違う捉え方をしている、という演出が面白い。タイトルから伝わってくるように、初版当時に流行っていたトレンディドラマ風の軽妙なタッチの物語である。テンポ良い展開、軽妙な会話の多さは森瑤子風『東京ラブストーリー』、また、オムニバス的な構成と一夜限りのイージーな恋愛関係が多く描かれるところは、森瑤子風『SEX AND THE CITY』とも言えそうである。

面白いと思ったのは、描かれている登場人物、特に女性達の結婚観の古さだ。簡単に一夜限りのメイクラブをしたり、気軽に不倫の恋をしたりする貞操感とのギャップがすごい。若い女性の「結婚までいかに男を追い込むか」的な感覚とか、現代の女性にはちょっと理解ができないのではないか。このへんは、描かれた時代というよりは、作者自身の結婚観の古さを感じさせるし、セックスや不倫には大らかなのに、なぜか結婚にだけは固執する、欧米的倫理観の影響もあるのかもしれない。

森瑤子の小説には、宗教色は全く無い。それなのに、キリスト教文化が根強く残る欧米風の結婚観、神さまがいなくなった後でも結婚という結びつきだけが神聖化され、形骸化して残り続ける結婚観、みたいなものの残滓はあって、現代に続く日本の結婚観を考えるのに興味深いなあ、と思ってしまった。日本はいつから、こんなに結婚を神聖化するようになったのだろう。お好み次第でキリスト式にも神式にも選択可能な結婚式の中で、神さまを信じてるわけもなかろうに。婚前の貞操観には寛容で、不倫と聴いた途端に大騒ぎするのはなぜなのか。少なくとも、この小説が書かれた時代は今よりずっと不倫に寛容であったようである。

「浮気 男の場合」では、既婚者の秀二が、カフェバーにいる女性2人を口説いてこんな話になる。

「どこまで話したっけ?」

「男は肩肘張ってるって話」

「そうそう。ある意味でさ、女くどくのも命がけみたいな馬鹿なところが男にはあってさ」秀二はいつのまにか美人の奈々子の存在は忘れて、カーリーヘアの方に話しかけていた。「それくらい、馬鹿にならないと、見知らぬ女なんて口説けやしないし。たかがバーで出会った女口説くくらいのことで命張るみたいな気持に、自分を一種騙くらかすっていうのかね、暗示かけるっていうのか。世界一の美男子で、もてる男になったつもりじゃなければ、男なんて劣等感の動物だから、一言も声などかけられもしない」

結局、秀二はなぜかしらブスのカーリーヘアの女と意気投合して、ホテルにしけこむが、そのホテルの入り口で、偶然、他の男性といる妻の姿を見てしまう。ホテルの部屋に入っての秀二の言葉。

「きみの肉体を使って、女房に復讐するのは、いやだ。それはきみに対してフェアじゃないからだよ。この点をわかってもらいたい。きみが抱きたくないんじゃない。きみがブスだからでもない。女房の腹いせみたいに、きみを愛したくないんだ。それだけだよ」

女は長いことベッドに腰をかけたまま、壁にかかったマチスの複製画をみつめていた。

「ありがと・・・」

そういう女の眼から、涙が転がり落ちた。

「今の言葉、あたしが生涯で聞いた一番ステキな言葉だ。一番ステキで、一番きれいだ。男のひとって、すごいよね。すごい発想をするんだよね。たいていの時は、くだらないことばっかり言ったり、イバッたり、スケベだったりするけど、いざとなると、男って、ほんとにステキだよね」

もちろん、出来過ぎの話ではある。男のヒロイズムを浮気の言い訳にしてきたことが問題だ、とか、男が女を守っている風を装って男の方にだけセックスの選択権があるのはナンセンスだ、とか、フェミニストは言うかもしれない。それはそれで多分、正しい。

でも、フェミニズムがいくら高揚しても、有名人の不倫報道がどんなに叩かれても、男と女の関係はこの小説が書かれた30年前から遅々として中々変わっていかない。だから、今の女性だって、こんな小説の、こんなセリフで、男と女の「今そこにある(または、ありやすい)」違いについて、ちょっとお勉強をしておくのも良いではないか、と思う。少なくとも、この時代には、バーで出会った女と行きずりの関係をもつような場合でも、男がセックスすることを「抱く」とか「愛する」とか言うヒロイズムとロマンがあったのである。

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