書評・小説 『ペスト』 アルベール・カミュ ②


私が当初期待して読み始めたように、この高名な小説が、まさかの世界的パンデミックに呆然とする我々に対して、示唆してくれるものは少なくない。ただ、この小説をタイトル通りに受け取ってはいけない。この小説におけるタイトル、「ペスト」はあくまで象徴的なものだ。村上春樹なら、「メタファーだ」と言うであろうものだ。不条理な災禍としての象徴、民衆にとっては全く回避不可能で対処のしようのない災禍としての象徴。

ここでイメージされているのは、言うまでもなく戦争だ。パオロ・ジョルダーノは、4月に緊急刊行した『コロナの時代の僕ら』の後書きで、コロナウイルスによる緊急事態を安易に戦争となぞらえるのは《恣意的な言葉選びを利用した詐欺だ》と警告している。実際的な問題を考え対処しようとする場合に、これは正しい。これは全く戦争ではないし、戦争とは違った科学的・実際的なアプローチが必要な問題である。ただ、人間の心理や哲学といったことを考える時、ペストのような極めて致死率が高く危険な疫病の流行が人類にもたらす問いは、戦争のそれと極めて類似している、と言えるだろう。

この小説の中では、オランの町の人々にとって、現在の我々とは比べようもないくらい事態は逼迫していく。最大のヤマ場は、オトン氏の息子の臨終シーンである。主人公にあたる医師のリウー、彼の無二の親友となりつつあるタルー、血清の開発に努める老医師のカステル、敬虔な聖職者のパヌルーらは、血清の効果を確かめるために、幼い子供が一晩中壮絶な苦しみを味わいついに力尽きる一部始終を目の当たりにする。この苦悩を前に、医師のリウーが聖職者パヌルーに投げかける問い。

同じ激した身ぶりで、リウーは振向くと、激しくたたきつけるようにいったー

「まったく、あの子だけは、少なくとも罪のない者でした。あなたもそれはご存じのはずです!」

(略)

「それはわかります」とパヌルーはつぶやいた。「まったく憤りたくなるようなことです。しかし、それはつまり、それがわれわれの尺度を越えたことだからです。しかし、おそらくわれわれは、自分たちに理解できないことを愛さねばならないのです」

リウーはいきなり上体をぐっと伸ばした。彼はそのとき身のうちに感じえたかぎりの力と情熱をこめて、じっとパヌルーの顔を見つめ、そして頭を振った。

「そんなことはありません」と、彼はいった。「僕は愛というものをもっと違ったふうにかんがえています。そうして、子供たちが責めさいなまれるように作られたこんな世界を愛することなどは、死んでも肯んじません」

この、幼き者の死、無垢の者の苦しみ、という問題は、まさしく『カラマーゾフの兄弟』でイヴァンが問いかけたものと同じものである。この問いかけが、キリスト教文化にいかに深く根付いているかが分かる。確かに、これはある意味で究極的な問いなのだ。そして、この問いに対してパヌルー神父は最後の説教でこう説く。

たしかに、子供の苦しみということは、精神にとっても心情にとっても屈辱的なことである。しかし、それゆえにこそ、そのなかへはいっていかねばならぬのである。しかし、それゆえにこそーそういってパヌルーは、自分が今いおうとしていることは決していいやすいことではないと、聴衆に向って断言したー神が望みたもうがゆえにそれを望まねばならぬのである。このようにしてのみ、キリスト教は何ものをも見すごすことなく、しかもすべての出口を閉ざされて、本質的な選択の深奥に向いうるであろう。(略)「あれは理解できる。しかし、これは受入れることができない」などということはいえない。われわれに差出された、その受入れえぬものの心臓に、まさにわれわれの選択を行うために、とびついていかねばらなぬ。子供の苦しみは、われわれの苦鬼パンであるが、しかしこのパンなくしては、われわれの魂はその精神的な飢えのために死滅するであろう。

これを読んでわかる通り、パヌルーの説教は、医師リウーの苦悶の問いに対して、なんら救いをもたらさない。これでは、あえて苦しむために子供の死が、神の救いが、必要とされるようではないか。この自己欺瞞的な答えへの非難を回避するため、彼はさらにこう重ねる。

ペストのなかに離れ島はないことを、しっかり心に言い聞かせておかねばならぬ。まことに、中間というものは存在しない。公憤に値するような事実も許容しなければならない。なぜなら、われわれは神を憎むか、あるいは愛するか、選ばねばならぬからである。そして、何びとが、神を憎むことをあえて選びうるであろうか?

これは、逆説的な問いを秘めている。これは、絶望の深淵と背中合わせの結論なのである。神を憎むわけにはいかないから愛するしかないのだ、ということは。そして、この説教を行ってまもなく、パヌルーもまたペストに羅患し、彼は診察を拒否したまま、神の御手に召される。彼の死は無表情である。生身の私たちが見る限り、そこに救いはないのだ。

この小説の中に、残念ながら魂の救済はない。これは、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』を書いてから半世紀も後の作品なのだから。

ただ、私が『ペスト』を素晴らしい作品と感じたのは、この真摯な問いの深さと重さだけが理由ではない。この小説の中で、カミュは、冷徹で深遠な思索と共に、人間の生の美しさと力強さを表現することに成功している。それが、ペストと戦い続ける医師リウーの姿であり、また、彼とタルーとの友情である。

謎めいたタルーが、自分の人生の告白を終え、リウーと共に夜の海へ泳ぎに出て行くシーンは一際美しい。壮絶な「子供の死」に匹敵するほど、印象的で感動的なシーンである。しかし、物語の終盤で、タルーもまたペストの病魔に侵されてあっけなく死んでしまう。タルーの死と時期を同じくして、ペストは突然終焉する。

しかし彼はまた、一人の人間を愛するということはたいしたことではないこと、あるいは少なくとも、愛というものは決してそれみずからの表現を見出しうるほどに力強いものではないことを、知っていた。(略)そしてタルーは今夜、二人の友情がほんとうに生きられる暇もなかったうちに、死んでしまったのだ。タルーは勝負に負けたのであったー自分でいったいたように。しかし、彼、リウーは、いったい何を勝負にかちえたであろうか?彼がかちえたところは、ただ、ペストを知ったこと、そしてそれを思い出すということ、友情を知ったこと、そしてそれを思い出すということ、愛情を知り、そしていつの日かそれを思い出すことになるということである。ペストと生とのかけにおいて、およそ人間がかちうることのできたものは、それは知識と記憶であった。おそらくはこれが、勝負に勝つとタルーの呼んでいたところのものなのだ!

ここには、フランス文学の真髄と呼べるようなもの、私がサガンの小説を好きなのと同じような、徹底したヒューマニズムがある。シニカルな現実を平然と受け入れるリアリストでありながら、なお、人間と知性を愛して信じてやまないヒューマニズムだ。これが、「神は死んだ」あとの、唯一の光明である。それはとても朧げで儚い光だ。私たちは、すぐに忘れ、無知なために歴史を学ばないか、或いは見当違いの教訓を引き出すほどに愚かで、何度も過ちを繰り返す。それでも、神を憎むかわりに、人を愛する、それしか道はないのだから、と、繰り返し言い続けるのである。

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