書評 『図書館 愛書家の楽園』 アルベルト・マングェル ②


個人的に印象に残ったのは、「心のあり方としての図書館」の章に出てくる、アビ・ヴァールブルクのエピソード。ヴァールブルクは、19世紀後半に、ユダヤ人銀行家の長男としてドイツに生まれるが、13歳にして、父親の仕事も家族の信仰も放棄し、将来自分の欲しいと思う全てを買え与えるということを条件に弟に相続権を譲る、そして、その膨大な蔵書をもとに、「自由連想式」の図書館を設立するのである。

ヴァールブルクの考えによれば、図書館とは、何よりもまず関連性の積み重ねであり、関連性のそれぞれがさらに新たなイメージや文章の結びつきを生みだし、その関連性がついには読者を最初のページへと引き戻すのだった。ヴァールブルクにとって、図書館はつねに円環をなしていた。

ヴァールブルクは、人類の「記憶」は人類の文明の中核にあるものであり、「記憶」による関連性の積み重ね、次々と連鎖反応を起こして自由に羽を広げていくイメージを、そのまま知の集大成である図書館にあてはめようとした。その過程で、ヴァールブルクの精神はバラバラに引き裂かれてしまい、療養所に入ることを余儀なくされる。

療養所で過ごす日々は、ゆっくりとした回復と自己の再生に費やされた。ヴァールブルクは、ばらばらに砕けた心と何千もの図像と無数の断片になった文章をもう一度一つにまとめようと努力した。「神は細部に宿りたもう」と彼は好んでくりかえした。それでも、「私は細部に死ぬ」といったルソーのように、かつて追い求めた図像と思考がずたずたに引き裂かれたいま、それを元通りにすうことはとても無理だと感じてもいた。

ヴァールブルクは自分直観を科学的な法則で結論づけたかった。芸術や文学から得られるスリルと恐怖が、原因と結果を理解するための道程になると信じたかったのだろう。それでもなお、彼は欲望としての記憶という考えにくりかえし立ち返った。さらには、知識としての欲望そのものへと回帰した。・・・ヴァールブルクがその図書館を通じて創りだそうとしたのは、・・・好奇心と尊敬と畏怖の念に突き動かされてこの世のすべてを知りたいと願う彼の知的な探究心を、愛情とともに映し出したものでもあった。

この本の中では、ヴァールブルクのエピソードにもあるように、図書館における「知の集大成・統一」とと「知の無限の多様性」という相反する二つのイメージが語られている。本を読み終わった後に気づいたのだが、第一章の「神話としての図書館」のエピソードに、そのことは象徴的に暗示されていた。

屹立するバベルの塔は(実際にあったとして)、宇宙の統合を求める人類の思いの証である。伝承によれば、バベルの塔の影がどんどん伸びてゆくころ、人類は共通言語をもった一つの世界に暮らし、しっかりと揺るがない足元の大地と同じように、天国が確実に存在することを信じて疑わなかったという。アレクサンドリア図書館は、それと逆のことを証明しようとした。つまり、この世界は途方にくれるほど多様性に富み、その多様性には隠された秩序が存在するにちがいないということである。私たちがまず最初に直感的に思い描くのは、永続性をもった単一言語を司る唯一神の存在であり、その言葉は地上から天国にいたる全宇宙で話されていたという考え方だ。二つめに思い描くのは、さまざまな言語で書かれた本がそれぞれ固有の複雑な宇宙をもち、独自のやり方でこの世界全体について言及しようとしている考えである。・・・いたるところに偏在するこの無言のアレクサンドリア図書館という建築物は、宇宙の秩序を求めようとする人類の夢に永遠につきまとう。

しかし、この人類の夢には、ヴァールブルクのような稀有な天才、徹底した思想家、純然たる哲学者たちにとっては、精神を破壊しかねないほどの危険を孕んでいる暗部があることも事実である。
また、最終章「帰る場所としての図書館」の章で、マングェルは、全ての可能性と多様性を受け入れることの不幸な帰結について、「一つの土地が故郷(ホーム)であることと、世界全体が故郷(ホーム)であることは、どちらにしても辛い体験になりうる」と語っている。
しかしその上でマングェルは、「人間の知を共有することで人間としての限界から解き放たれる」と説いたセネカや、「輪廻転生のように知は受け継がれ、過去は現在にとって無尽蔵の知の源泉となりうる」としたトマス・ブラウンの言葉を例に挙げ、無限な広がりを持つ図書館に、「なんとか耐えられそうな未来への望みがある」と語っている。

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