書評 『サピエンス全史』 ユヴァル・ノア・ハラリ ②


先史(著者が嫌っているにも関わらず便利なのでこの言葉を使わせてもらうが)のサピエンス史について興味深い視点を提供してくれる前半部分に比べ、有史以降の歴史については、さほど本書に目新しい部分はないように思う。

主に思想宗教史と経済史の観点から語っているが、そういう観点なら他にもっと面白くて内容の深い歴史書が幾つもある。ウィリアム・バーンスタインの『豊かさの誕生』、トーマス・セドラチェクの『善と悪の経済史』ニーアル・ファーガソンの『マネーの進化史』、ピーター・バーグの『知識の社会史』。最古の神話ギルガメシュにおける死生観、ゾロアスターからグノーシス主義・マニ教まで含めた思想宗教の変遷、アダム・スミスの思想から始まりフランスのミシシッピ・バブルに至る資本主義の発展など、いずれもこれらの本で既に書かれてきた内容だ。

唯一、印象的だったのは、近代以降の「科学革命」の特異性、それが世界を変えた速度と威力の凄まじさ、についてである。もちろん、科学革命がひいては産業革命が、世界を一変させた重大な出来事であることは、世界史の基本中の基本である。それでも、世界史を例えば思想や宗教や経済といった観点で眺めてみると、むしろサピエンスの「変化の無さ」の方が強く実感される。しかし、人間が考えたり悩んだりしていることの変わらなさに比べて、人間の生活や技術の変化の著しさはどうだろう。私たちは、一千年前の物語や音楽に容易に心を動かされ、一千年前の人々の宗教上の葛藤や哲学的苦悩や或いはもっと卑近な浮世の苦労のあれこれに共感できる。けれども、同じ一千年前の人々は今の私たちの生活で当たり前に使っている自動車やテレビやパソコンなどのテクノロジーを全く想像できないだろう。テクノロジーの変化の凄まじさについて実感させてくれたのは、例えば戦争における例を示した次のような文章である。

たいていの帝国は、テクノロジーの持つ魔法のような力のおかげで台頭したわけではなく、その支配者たちは、テクノロジーを向上させることについてろくに考えなかった。(略)

ローマ軍はとくに素晴らしい例を提供してくれる。ローマ軍は当時の最高の軍隊だったが、技術に関して言えば、ローマはカルタゴやマケドニア、セレウコス帝国よりも優れてはいなかった。ローマ軍の優位は、その効率的な組織や、鉄の規律、大規模な予備兵力のおかげだった。(略)紀元前2世紀にカルタゴを倒し、ヌマンティア人を打ち破った将軍スキピオ・あエミリアヌスの軍団が、五〇〇年後のコンスタンティヌス帝の時代に突然現れたとしても、スキピオにはコンスタンティヌスを打ち負かす可能性が十分あった。今度は、数世紀前の将軍、たとえばナポレオンが軍を率いて現代の機甲旅団に立ち向かったらどうなるか、想像してほしい。ナポレオンは卓越した戦術家で、彼の将兵は歴戦の勇士たちだが、その技能も現代兵器の前には歯が立たない。

確かに、試みに紀元後1000年と1500年と2000年というふうに、500年毎に年代を区切ったとすると、1000から1500年の500年間におけるテクノロジーの変化と、1500年と2000年の500年間におけるテクノロジーの変化は、全くレベルの違うものであることが分かる。紀元1000年の人は、1500年時の原始的な活版印刷や人馬の動力を使ったテクノロジーを或いは想像くらいはできるかもしれないが、紀元1500年の人が、2000年の宇宙衛星やインターネットや原子力発電を想像することは絶対に不可能だろう。

この「科学革命」がもたらしたテクノロジーの進化、それはやがて「サピエンス」そのものの存在を変えるものになるかもしれない。著者は最後にバイオ工学やサイボーグ工学の最先端の研究を引用し、《歴史の次の段階には、テクノロジーや組織の変化だけではなく、人間の意識とアイデンティティの根本的な変化も含まれるという考えだ。そして、それらの変化は本当に根源的なものとなりうるので、「人類」という言葉そのものがその妥当性を問われる》と語っている。

この他に、印象的だった文章をメモとして引用しておく。植民地主義、資本主義、そして最後は世界的かつ歴史的な女性差別について。特に、最後の女性差別についての著者の主張は、フェミニストには眉を顰められそうな内容なのだが、私自身内心疑問に思っている問題でもある。なぜ、サピエンスのメスは生物学的にこのような進化を選んだのか?という大きな疑問。DNAを介した進化にとてつもない時間がかかるのは理解できるが、それでも、サピエンスのメスが、現在のような一方的にメスに負担がかかるような生殖方法を選んでいるのかは、大きな謎である。ましてや、認知革命により、記憶や言葉や神話によって行動パターンや思想を大きく変化させることができるサピエンスにおいて、こんなに長くかつ広範囲において、差別的な処遇を受け入れいてきたのはなぜなのか。この点は、フェミニストからももっと関心を持たれてもよいところだと思う。

鄭和の遠征によって、ヨーロッパがテクノロジーの面でとくに優位に立っていたわけではないことがはっきりする。ヨーロッパ人が特別なのは、探検して征服したいという、無類の飽くなき野心があったからだ。やろうと思えばできたのかもしれないが、ローマ人は決してインドやスカンディナヴィアを征服しようとはしなかったし、ペルシア人はマダガスカルやスペインとを、中国人はインドネシアやアフリカをけっして征服しようとはしなかった。中国の支配者の大半は近くの日本さえも自由にさせた。それは特別なことではなかった。特異なのは近代前期のヨーロッパ人が熱に浮かされ、異質な文化があふれている遠方のまったく未知の土地へ航海し、その海岸へ一歩足を踏み下ろすが早いか、「これらの土地はすべて我々の王のものだ」と宣言したいという意欲に駆られたことだったのだ。

利益は浪費されてはならず、生産に再投すべきであるという実業家の資本主義の価値体系と、消費主義の価値体系との折り合いを、どうすれば付けられるか?じつに単純な話だ。過去の各時代にもそうだったように、今もエリート層と大衆の間には分業がある。中世のヨーロッパでは、貴族階級に人々は派手に散財して贅沢をしたのに対して、農民たちはわずかのお金も無駄にせず、質素に暮らした。今日、状況は逆転した。豊かな人々は細心の注意を払って資産や投資を管理しているのに対して、裕福ではない人々は本当は必要のない自動車やテレビを買って借金に陥る。

これがボノボやゾウで可能なら、なぜホモ・サピエンスでも可能にならないのか?サピエンスは比較的弱い動物で、その利点は、大人数で協力する能力にある。それならば、他者に依存する女性たちが、仮に男性たちに依存していても、優れた社会的技能を使って協力し、攻撃的で自律的で利己的な男性を出し抜き、操ってもよさそうなものだ。

成功が何よりも協力にかかっている唯一の種において、どうしてあまり協力的でないはずの個体(男性)が、より協力的なはずの個体(女性)を支配するようになったのか?今のところ、妥当な答えは見つかっていない。ひょっとした、一般的な仮定はみな、単なる誤りなのかもしれない。ホモ・サピエンスという種のオスは、体力や攻撃性、競争性ではなく、優れた社会的技能と、より協力的な傾向を特徴としているのかもしれない。実際のところは、私たちにはまったくわからないのだ。

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