『美術は宗教を超えるか』 宮下規久朗 佐藤優 ②


佐藤優氏は承知の通り、ロシアの文化史や社会史には特に詳しい。カトリックやプロテスタントとは少し違うギリシア正教の文化、共産主義と宗教との関わり、などについても興味深い知識が得られる。佐藤氏によれば、「教会破壊」で有名な独裁者スターリンは、神学校を中退しており、晩年まで神学校時代の友人だった神父たちと付き合っていたのだと言う。《スターリン自身は宗教の力をよく知っており、むしろ政治に利用していました》。

宮下

なるほど。普通は「共産主義は宗教を否定する」と考えがちですが、そうではなかった。

佐藤

共産党の優位性が担保される限りにおいて、宗教は否定されません。むしろ活用される、といってよい。裏を返せば、共産主義という傘がなくなった瞬間、パルチザン内の宗教対立が再発する、ということです。

共産主義と宗教の類似、というのは、昔からよく言われてきたことだし、文学的なテーマとしても度々取り上げられてきた。佐藤優氏は、宗教の超越性に着目して、それをさらに、AIやバイオテクノロジー「信仰」に敷衍している。これを読んでなるほど、と思ったし、『善と悪の経済学』の著者トーマス・セドラチェクから見れば、AIとバイオテクノロジーに並んで「経済学」もつけ加えられるかもしれない。

佐藤

AIやバイオテクノロジーの背後には「聖霊の働きによって人間が神になる」という「信仰」があります。AIがめざすのは「人(神)の手によって機械(アダムとエバ)に知を授けること」であり、すなわち人間が神になることです。バイオテクノロジーは「生命のデータの集積である」という仮説から生物のアルゴリズム(計算可能な手続き)を解析し、データ(生霊)の働きによって生命を操作しようとする。

「シンギュラリティがやがて来る」と語る人には工学者が多く、数学者が少ない。彼らは純粋科学を装いつつ、じつは宗教的な考えを抱いている人たちなのです。

宮下

AIと信仰が意外な接点で結びつきますね。

佐藤

「宗教の名を語らない宗教」というのはどの世界にもあります。共産主義も同じで、仮に共産主義の看板が「マルクス・エンゲルス教」や「スターリン教」だったら、あれほど世界に広まらなかったでしょう(笑)。宗教の本質は超越性にあります。かつての唯物弁証法も現代のシンギュラリティも、超越の契機を見つめるという意味で、まぎれもない信仰なのです。

最後に、美術的トリビア的雑学知識あれこれを備忘メモ。

宮下氏の最新著書『聖母の全美術史』が、キリスト教における聖母のイメージについて縦横無尽に論じていてとても面白かったのは、先日記事にした通りだが、本書でも、聖母のイメージについては語っている部分は多い。

宮下

内村は本書で、ビザンツ帝国のキリスト教には「裁きのキリスト」というイメージがあり、ロシアにおけるキリストは厳格で怖い印象がある、という。対するマリアは寛容で「赦しの人」と見なされた、という趣旨のことを書いています。

総じていえば、プロテスタントのほうがやや男権的で、フェミニズム神学者も初期に登場した人はカトリックが多かった。ただし最近のプロテスタント神学の一部はフェミニズム神学の影響を受け、聖書の「父なる神」という表象を相対化し、母性を読み込んでいく傾向があります。

まあ、この女性即ち母性と置き換えてしまうところが、現代のフェミニストからは非難されそうな気もするのだが(笑)、キリスト教の男権主義的思想は、フェミニズムという文脈で見直すと、また色々矛盾とか興味深い点が指摘できそうである。

『美術の力』『聖母の全美術史』などで、史料の少ない日本のキリシタン美術に言及しているのも、宮下氏のユニークなところである。本書によれば、キリシタンの遺品で現存するもののうち実に9割近くがマリア像なのだと言う。恐るべし、マリア人気である。

日本のキリシタンの始まりと言えば、16世紀後半にローマに派遣された天正遣欧少年使節団。彼らの名前は、矢島翠の『ヴェネツィア暮し』にも、内田洋子の『対岸のヴェネツィア』にも出てきたのでお馴染みだ。しかし、彼らがヴェネツィアを訪れた際に、あのティントレットが『伊東マンショ像』という肖像画を描いており、それが約四百年ぶりにイタリアで発見された、というのは知らなかった。

それから、宮下氏の本流?的なカラヴァッジョについては、『聖マタイの召命』をめぐる「マタイ論争」が取り上げられている。テーブルを囲んで座っている五人の男性のうち、誰がキリストに召命されたマタイなのか、という問題なのは有名だが、美術史学的な考察や推論に加えて、宮下氏が現物を現地で鑑賞した際に受けた直感的イメージや、カトリック教の神学的解釈を加えて、俯いて小銭を数える若者がマタイなのではないか、と論じているのが面白かった。れっきとした美術史家の先生であればあるほど、美術作品について主観的な物言いを避けてしまう傾向があるが、この本は対談、ということで、気楽にこんな感想が聞けるのが良い。

宮下

ところがその反面、カトリックの見方は「誰もが救済されうる」というものです。したがって若者であろうが、画中の他の四人であろうが、全員が召命を受けて救われる可能性があるのです。強いていえば一見、最も救いから遠いと見られる若者ではないか、と考える。浄土真宗の悪人正機説に近い考え方ですね。

最後に、これも宮下氏の主観が十分に発揮されていて興味深かったのだが、グリューネヴァルトのイーゼンハイム祭壇画を《ヨーロッパ美術史上最高の傑作》と評していた。宗教美術ほど、現地現物で鑑賞しないとその真価が伝わならいものはないと思うので、いつか実物を鑑てみたいと切に思う。

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