『宗教から読むアメリカ』 森 孝一 ②


この「草の根」のアメリカ、という捉え方は、本書で繰り返し登場する。「中央・インテリ・現世権威」に対する「草の根」。考えてみれば、宗教というのは常に、「中央・インテリ・現世権威」への不満と対抗意識として、人々の間に広まってきたと言えるかもしれない。このことについて論じ出せば、それこそ一冊の本が書けるくらいであろうが、著者が指摘するアメリカの「見えざる国教」そして新たなセクト的宗教やファンダメンタリズムの広がりは、宗教というものの本質を象徴的に現していると思う。
1920年代には、ダーウィンの「進化論」が科学的「真理」として公立学校で教えられることについて、激しい論争が巻き起こったと言う。そして、日本人の私たちには信じられないことに、現在でもなお、その問題は論争の対象になっていると言うのである。
《これほど真剣に、長年にわたって公立学校における教育内容が問題にされてきたのは、それがアメリカの基本的な価値観に関わる問題であったからだろう。「科学という名の宗教」を唯一の価値として行われる教育にたいして、アメリカの「草の根」の民衆は、それを自分たちとは異質のエリートたちによる「押しつけ」と感じているのではないだろうか。》
世界で最も科学が進歩していると思われているアメリカでこんなことが論争になっているとは・・・と、殆どの日本人は信じられない気持ちになるのではないだろうか。私は、21世紀も10年以上過ぎたこの時代にこの問題が真剣に論じられているという現実に、アメリカという国がもつ(そして日本にはない)民族と価値観の多様性、徹底的な客観主義と懐疑主義に裏付けられた西欧的合理的精神、そして何よりも、心や命といった宗教的な問題を簡単に片付けてはならない、という真摯な姿勢を感じ。

確かに、私を含めて、多くの日本人が知っているのは、メディアを通した「大都会のアメリカ」「インテリのアメリカ」「ワシントンDCのアメリカ」だけなのかもしれない。だからこそ、例えばこのようなアメリカのもう一つの姿に驚きを覚えるのである。
《アメリカで日曜の朝、テレビをつけると、いくつものチャンネルで宗教番組が放送されている。宗教的番組といっても、日本のような対談やフィルム構成による番組ではなく、ほとんどはリバイバル集会形式の礼拝である。》

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