書評 『階級の日本近代史』 坂野 潤治


『聖なる王権ブルボン家』の記事をインスタで紹介した際、フォロワーさんと講談社の選書メチエは中々骨太の本格派の本が多い、という話になり、お薦めいただいた本。私は日本(に限らずですが)の近現代史にめっぽう弱いのだが、小説ながら船戸与一の『満州国演義』シリーズを読み、また現在学術会議問題で話題の加藤陽子先生著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を読む中で、日本に自由民権運動が根付かず、あれほどの軍国主義とファシズムを可能にした原因はなんだったのか、という疑問が膨らんでいった。同じことは、『江戸の読書会 会読の思想史』の記事でも述べたのだが、この大きな問いは、私の中でまだ全然解決せず燻り続けている。

著者の坂野氏は、日本近現代政治史を専門とし、東京大学名誉教授を務め、数多くの著書を出している。

日本の高度経済成長と社会主義諸国の衰退と崩壊のなかで、日本人の大半は「中間階層」で、昔のような「階級社会」はもはや存在していないという考え方が支配的になってきた。それと同時に、幕末維新期から1945年までの日本近代史の研究でも、「階級」とか「階級関係」とかいう言葉も、それらを重視する視点も、姿を消していった。「一億総中流」という戦後の一時的な社会現象が、日本近代史の観方までも変えてしまったのである。

2014年の日本には、もちろん「一億総中流」などというものはない。大会社の社長と派遣社員の年棒比が100対1を超える「格差社会」になっているのである。

日本の近現代史に「階級」という視点を復活させ、その観点で政治を読み解こうというのが本書の主旨である。それでこの本を読み始めたわけだが、読後中々感想をまとめるまでに時間がかかった。本書の主旨は明確なはずなのになぜだろう、と改めて考えてみたのだが、著者の主張が主に2つのポイントに分かれ、2つ目のポイントの方が本書だけでは中々分かりづらかったように思う。

1つ目のポイントは明快だ。

これまでの著者の著作の表現に従えば、「明治デモクラシー」が「国会」をつくり、「大正デモクラシー」が「普通選挙」をつくった後を受けて、社会的な「格差」を是正することが「昭和デモクラシー」の課題であった。

また、「階級」というものに焦点を置いた本書の分析に従えば、明治維新が武士の革命であり、明治デモクラシーが農村地主の運動であり、大正デモクラシーが都市中間層の運動であったのに対し、「昭和デモクラシー」は、労働者と小作人の運動だったことになる。

明治維新で江戸時代の身分制度が崩壊したからと言って、階級問題が一掃されたわけではない。まず江戸時代に苦渋を嘗めてきた薩長閥の武士による革命があり、そして士族と富農、地主層が特権階級となり、やがて都市中間層が大正デモクラシーによる普通選挙法の実現を後押しした。

本当であれば、大正デモクラシーの後、来る「昭和デモクラシー」の時代に、労働者と小作人による運動が進展するはずであった。しかし、承知の通り、歴史はその通りに運ばず、第二次世界大戦の進展につれて、逆行するような全体主義、ファシズムの台頭を許した。そして皮肉にも、戦争に敗け、米国の占領によって、完全な普通選挙が成立し、民主主義が復活した。著者の主張のポイント2つ目はまさにここにあって、「戦争によって」日本の民主主義が実現した、という史観に対抗したい、という点である。

政治社会は「士」→「農」→「工」→「商」の順で一歩ずつ、下に向けて広がってきた。この流れは、「総力戦」や「総力戦体制」の有無にかかわらず、時代を動かしていく。「総力戦」の下でも、「総力戦体制」の下でも、あるいは占領軍の下でも、この流れは進んできた。それを「総力戦」のおかげ、「国家総動員法」のおかげ、無条件降伏のおかげと思い込むのは、単なる目の錯覚にすぎない。戦争はそれ自身の問題として是非を問われ、独裁はそれ自身の問題として是非を問われ、平等はそれ自身の問題として是非を問われるべきなのである。

これは非常に難しい問題だと思う。あの戦争の悲惨さを知れば知るほど、あの戦争が歴史的必然であったことを認めたり、さらには、あの戦争に社会的歴史的意義を認める、ということを否定したくなるのは人間の本性だと思う。ましてや《「戦中派」ならぬ「戦末派」の筆者》であればなおさらだ。

著者は、近代日本の民主主義が権利平等の確保だけを優先し、根本的な格差是正の努力を怠ってきた、という点を指摘している。それにより、例えばリベラルな民政党指導の下、雇用悪化が起こったことで、民政党は労働者階級の圧倒的な支持を得ることができず、デモクラシーの進展が停滞した。だから、《「総力戦」抜きの「総力戦体制」ならば、長年にわたって「格差の是正」を怠ってきた自由主義者に対する懲罰として、或いは受け容れられるかもしれない》。

戦争が結果的に格差を是正することになる、という皮肉な結果は、日本だけでなく、そして勝敗に関わらず、戦争に参加した国全てで認められたことは、トマ・ピケティ の『21世紀の資本』を読んでも分かる。もちろん、これは、「戦争が無ければ格差は是正されなかった」ということとイコールではない。一方で、「格差」と「戦争」の因果関係についても十分に検証・証明されているとは言い難い。ただ、悲惨な戦争の前には、異常な格差社会があることが多い、というのもまた歴史的な事実である。格差だけが戦争の原因だとは言えないが、戦争は時に格差の歪みが沸点に達したようにして起こっている(ように見える)。

難しいのは、権利平等だけで格差が是正されないのであれば、民主主義に取ってどのような制度や方法が現実的な選択肢として残されているのか、という点だ。筆者が大正デモクラシー後に指摘した、リベラル派が時に景気悪化政策を主導して大衆の支持を得られないと言った現象は、現代でも全く解決していないままに繰り返されている。また、階層は当然固定的でないから、零細事業の雇用労働者の後には非正規雇用者、その後には外国人労働者、と階層は重層的にまたその利害も複雑に絡み合う。

日本にあの悲惨な戦争が無くても、時間をかけて民主主義が進行していったであろうことは確かだと思うが、それと共に格差も解消していたかどうかは大きな疑問だ。本書の帯で「軍国主義の台頭の最大の理由は、社会的不平等だった」と主張するならば、やはり、それを回避する現実的な選択肢がどの程度あるのかをもう少し検証しなければならないと思う。冒頭で述べたように、講談社選書メチエは読み応えはあるものの、やはりこの分量では限界もある。著者の他の作品も参考にして、この問題はまだまだ考える必要があるようだ。

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