離島美浜島を襲った突然の津波。生き残ったのはたった6人。当時中学生だった主人公の信之は、幼馴染で恋人の美花を助ける為、生き残りの一人を殺害する。二十年後、秘密を抱いたまま妻子と共に平穏な生活を送っていた信之の前に、生き残りの一人である弟分の輔が現れる。それをきっかけに、信之の妻南海子と輔の不倫、信之の幼い娘の暴行事件、輔の父親による息子への虐待、そして信之による新たな殺人、と絶望的な孤独と暴力が加速していく。
三浦しをんさんの長編小説はどれも好きで幾つも読んでいるが、今回はまた、随分重いテーマに挑戦したんだなあ、と思った。『舟を編む』の記事で書いた通り、ちょっと青臭さを残しつつもオタク的ユーモアと格調高い文章を両立させるような小説が、三浦しをんさんの真骨頂のように感じていたから、この作品はちょっと意外でもあった。
主人公の信之は、中学生の時に家族全員、島ごと津波に飲み込まれて失う、という壮絶な経験をしている。この突然の謂れのない暴力に対して人間はどう生きるべきか、ということがこの物語の核のテーマとなっている。
もう、気づいていないふりはできない。
罪の有無や言動の善悪に関係なく、暴力は必ず降りかかる。それに対抗する手段は暴力しかない。道徳、法律、宗教、そんなものに救われるのを待つのはただの馬鹿だ。本当の意味でねじふせられ、痛めつけられた経験がないか、よっぽど鈍感か、勇気がないか、常識に飼い馴らされ諦めたか、どれかだ。
暴力に暴力で返したことがある信之には、よくわかる。暴力で傷つけられたものは、暴力によってしか快復しない。(略)
この世のどこにも安息の地はない。暴力によって損なわれるとは、そういうことだ。
あの島で起こったことを、裁けるものならだれかに裁いてほしかった。
主人公の信之は、襲いかかる暴力に対し、暴力を持って報いる。美花を犯した山中を殺し、秘密をバラそうとする輔の父親と輔を殺す。当然ながら、それで彼が救われるわけではなく、暴力は次の暴力を生み、唯一信じていた美花への愛自体にも裏切られる。
暴力はやってくるのではなく、帰ってくるのだ。自らを生みだした場所ー日常のなかへ。
なにくわぬ顔をして故郷に帰ってきたそれは、南海子のそばで息をひそめている。息をひそめて、待っている。再び首をもたげ、飲みつくし、すべてを薙ぎ払うときを。
それから逃れられるものはだれもいない。
この小説のラストである。光は水平線に吸い込まれて消える。
ある意味で、このテーマは使い古されたテーマだ。古来から、宗教が哲学が、そして文学ももちろん、この「故なき暴力に対し人はどう生きるべきか」ということを問うてきた。そして、もちろん、万人が満足する答えは導き出せていない。重いテーマを前に、答えが無くて問いが投げ出されたままなのは当然だとは思うが、もう少し違う角度で深掘りが欲しかったかな、とは思う。
冒頭の津波のシーンが印象的なので、著者はてっきり東方大震災に触発されてこの小説を書いたのかと思ったが、単行本の初版は2008年だから、それよりも前である。日常を襲う暴力がこのような形で現れることを予言した三浦しをんさんのイメージ力がすごいな、と思う。でも、もし、このような悲劇が現実に起こった後だったら、彼女はこういう書き方はできなかったのかもしれない。なぜって、身近にこの惨劇が繰り広げられたとしたら、この描き方はちょっと無責任にも救いがなさ過ぎるようにも、受け取られたかもしれないから。暴力は暴力を生むことは確実だが、やはり現世では納得のできないやり方で、故なきところにも暴力は発生する。それに対して全く光が無いことを突き詰めたら、そもそも人は生きられない。
もう一つ、この小説で気になったのは、登場人物に感情移入ができないところだ。特に、主人公の信之は、初めから何もかも絶望しているようで妻子を持って役所に勤めるという平穏な生活を求めたり、愛する努力をしていると言う割にそのあとが感じられない。複雑というよりかは、どこか脈絡と一貫性のない感じがしてしまう。沼田まほかるの『彼女がその名を知らない鳥たち』でも「共感度ゼロの登場人物」が話題になっていたが、最近人気の小説には、この手のものが多いように思うのは偶然だろうか。登場人物に感情移入ができない、というのは物語性の大事な部分を失ってしまっているようにも思えるのだが、それを犠牲にしてもストーリーの面白さで引っ張る、というところが、今求められているのかもしれない。角田光代さんのように、それはそれで究めるとすごい技だなあ、とか思ったりするが、それはまた別の機会で触れることにする。
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