どこかで村上春樹が、自分は短編小説で実験的書いたものを長編小説に持ち込んで書くのだ、と言っているのを聞いて、久しぶりに短編小説も読みたくなった。
そういう目で改めて読み返してみると、なるほど、村上春樹の長編小説で用いられるモティーフや題材が、あちこちに散らばっている。
例えば、一編目の「螢」は、よく言われているように『ノルウェイの森』の前半そのものである。<男2人と女1人の組み合わせ>や<爽やかで非の打ちどころがない男性友人>というモティーフは、この短編集の中では、「螢」だけでなく、「めくらやなぎと眠る女」にも登場するが、これは長編小説でも『ノルウェイの森』だけでなく、『ダンス・ダンス・ダンス』でも用いられている。
『ダンス・ダンス・ダンス』の主人公の<爽やかで非の打ち所がない男性友人>である五反田君は、理由なく女性を殺して平然としている殺人鬼でもあるわけだが、この<エレガントで残酷な男>というモティーフは、そのままこの短編集の「納屋を焼く」の男性に当てはまると思う。(まあ、納屋を焼く程度では残酷とは言えないが、無意味な悪、という意味で残虐性を秘めている)傍にいる娼婦的魅力を持つ若い女性まで、『ダンス・ダンス・ダンス』のメイや耳の素敵なキキを彷彿とさせる。何度か触れているように、村上春樹の長編小説には、<絶対悪>的なものが登場することが多いが、そういう<絶対悪>が時にエレガントな男性の姿を借りて現れる、というのは、『羊をめぐる冒険』でも見られる。
<絶対悪>はあくまで象徴的なものだが、『羊をめぐる冒険』の中では、右翼の大物的人物の中にそれが宿っていた。表題作の『螢』で主人公が住む寮は《ある極めて右翼的な人物を中心とする正体不明の財団法人》によって運営されている。短い作品だが、毎朝の国旗掲揚と共に、その寮を覆う<奇妙な全体主義>的雰囲気の描写に筆が割かれている。村上春樹の作品は、その<ノンポリ>な感じが新しかった幅広い世代に受け入れられた理由でもあると思うのだが、この<奇妙な全体主義>への違和感、嫌悪感、というものは、結構そこここに見え隠れしていると思う。この短編集の中では、例えば「めくらやなぎと眠る女」に出てくるバスの中の謎の中高年軍団、なんかもこれに当てはまるかもしれない。謎の中高年軍団については、違和感程度で収まっているが、『海辺のカフカ』ではもっとはっきりとした嫌悪感が示されている。
こうやって長編作品との比較的観点から分析ばかりしてしまうと、短編小説は長編小説の出来損ない、みたいに思われてしまいそうだが、短編には短編の良さがある。村上春樹の長編小説は、それこそ無数のモティーフやエピソードやシーンが一見ランダムに取り入れられているところが魅力なのだが、長編では霞んでしまうそれらが短編ではよりビビットに繊細に情感を持って感じられる。長編で軽やかに漂って受け流してしまったところを、手に取ってしみじみと味わい直してみるような良さがあるのだ。
逆に、長編のストーリーの中で漠然と捉えていたイメージが、短編の中の象徴的なモデルでくっきりとする、ということもある。例えば、『海辺のカフカ』や『騎士団長殺し』で出てくる、カーネルサンダースおじさんや騎士団長は、短編「踊る小人」の小人と繋がっていく。「冬の博物館としてのポルノグラフィー」で、セックスを喩えた冬の博物館の描写は、長編小説の中の(結構数多い)セックスシーンを思い出させ、それからまた、どこか『海辺のカフカ』の不思議な図書館にも通じるものを感じさせた。
もう一つ、村上春樹の短編小説の中で印象的だったのは、情景描写の見事さだ。長編小説の中でも、村上春樹の季節感や情感をリアルに切り取ってくれる情景描写が好きなのだが、どうしてもストーリーやモティーフの面白さに紛れて印象が薄くなってしまう。短編では、そういうものが無いせいで、例えば、寮の屋上から螢が闇の中に飛び立つのを見守る「螢」のラストシーンや「めくらやなぎと眠る女」の風の描写など、村上春樹の情景描写のリアルさが匂い立つように感じられた。
あいかわらず良い天気で、あいかわらず五月の風が吹いていた。目を閉じて、ぱんと手を叩いて、目を開けると、いろんな状況ががらりと変っているんじゃないかという気がふとする。それは風が、僕の皮膚にこびりついた様々な存在感の上に、変なやすりのようなものをかけていくせいだ。そういえばずっと昔はよくこういう感触を体験したものだった。
「めくらやなぎと眠る女」
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