いまひとたびの、森瑤子 ①


森瑤子という作家がいた。1978年、38歳の時に書いた小説『情事』が第二回すばる文学賞を受賞。英国人と結婚し3女の母であった主婦は、まさに「彗星の如く」文壇デビューを果たし、芥川賞、直木賞候補にも選ばれ、15年間に100冊以上の小説やエッセイを上梓した。しかし、1993年初旬に胃癌が発覚、余命半年で、52歳の早過ぎる生涯を終えた。

彼女が活躍したのは80年代のバブル絶頂期、当時30代から40代の大人の女性向けに、夫婦の確執、女の自立、セクシュアリティといったテーマが描かれた。当時の華やかな名声にも関わらず、それから30年以上経った現在では、彼女の名前が表に出る機会は殆どない。私のように、ティーンエイジャーの時、母親の本棚から勝手に拝借したり、大人の女性に憧れて背伸びをして、彼女の本を読んだ現在40代の女性もそんなに多くはないはずだ。ましてや、30代以下の人は彼女の名前すら知らないであろう。

私自身も、彼女の名前は長らく忘れていた。思い出したきっかけは、偶然、直木賞作家、篠田節子の小説『第4の神話』を読んだからだ。この小説のモデルが森瑤子だったのである。バブルが弾けると共に42歳の若さで早逝した人気作家は、死後5年で世間から忘れ去られ、華やかな生活の裏で多額の借金と自分の空虚さを埋めるために膨大な量の作品を書き続けたことが明らかになる。もちろん、これは創作なので、篠田節子は実在した森瑤子という作家の姿を描こうとしたのではなくて、象徴化した存在として彼女を使ったのである。しかし、森瑤子を知っている人が読めばすぐに分かる、くらいには実在に近くモデル化しているから、篠田節子が少々(というかかなり)意地悪な視点で森瑤子を捉えていたのは確かだと思う。それだけ、森瑤子という作家はセンセーショナルな作家だった、とも言える。

それから数十年して、篠田節子の予言通り、書店で森瑤子の本など全く見かけなくなった2018年に、ジャーナリストの島崎今日子が『森瑤子の帽子』というノンフィションを書いた。彼女を直接に知る家族や編集者、著名人など様々な人の証言を元に作家森瑤子の姿を追っていく。家族との関係や軋轢、カウンセリングや古い友人との関係から浮かび上がる葛藤やコンプレックスそして、作家森瑤子を語る上で欠かせないバブルという時代、その時代を彩る女たちの欲望、、、スキャンダラスな面だけでなく、作家森瑤子の内面と外にあった社会的背景、両面から彼女を描いたノンフィクションとしてとても面白い本である。

私はもちろん森瑤子と直接知り合いではないし、彼女の人生について特別知っていることも個人的な思い入れもないので、作家森瑤子の姿に興味がある方には、島崎今日子『森瑤子の帽子』の一読をおすすめして、ここでは彼女の作品の一読者として感じたことを綴ってみたい。

彼女の評価を下げている、というか、むしろ悪評を高めた原因の一つに、その乱作ぶりがある。15年の作家生活で100冊以上、というのは、作家では無い人間にはピンとこないが、例えば、前出の『森瑤子の帽子』は、森瑤子を慕う作家山田詠美のインタビューで始まるが、山田詠美の《自分が五十二歳になった時、ああ、森さんはこの年で死んだのだと感慨深くて、私はここまで生きてるんだからもっと小説書かなきゃと思いました》というコメントの後、《デビューして32年、あらゆる文学賞をその手にしながら生み出した本は七十冊に届かない》と結んでいる。山田詠美も決して佳作なタイプの作家では無いが、それでも倍以上の32年間の作家生活で、まだ70冊に満たないというのだから、森瑤子の創作ペースがいかに無茶苦茶なものであったかが分かる。

多作というだけで質が伴っていれば批判も無かろうが、怪物でも無い限り、こんなハイスピードで次々と創造的な作品を生み出せるはずもない。特に80年代後半からの彼女の作品には、とにかく同じような展開と表現の繰り返しが目立つ。

彼女の作品にはいつもどことなく倦怠感とスノビズムが漂っている。そしてそのスノビズムを彩るのは、「文化」「食&酒」「高級品」というお決まりのディティールで、私はこれを茶化して「森瑤子三種の神器」と密かに呼んでいる。「三種の神器」については、『秋の日の、ヴィオロンの、ため息の』『ジゴロ』といった作品の記事で具体的に述べているので、興味を持たれた方は読んでいただきたい。

パターンが同じだけなら、水戸黄門的親しみやすさがあり、シリーズもののような楽しみ方もできる。むしろ、村上春樹しかり、平野啓一郎しかり、「三種の神器」的パターンの繰り返しは、エンターテイメント性を増すものとして、現代の作家中には定着しているとも言える。しかし、森瑤子の後期の作品は、パターンだけでなく、エピソードや表現についての使い回しが繰り返されるのである。これは、さすがに文学的作品としては、少々いただけない。

多用されるエピソードで、最も多いのは、夫婦お互いの知人・友人との不倫、というエピソードだ。不倫が露見するやり方も大体似通っている。もっともっと具体的かつ詳細で、しかも何度も作品にエピソードとしては、「パーティーの最中にバスルームで不倫セックスをする」とか「人妻が不倫をしている間に子供を置いてきた家が火事になる」とか「約束の電話がかかってこない、或いは数時間遅れたことによって恋が終わる」とかがある。

作家として一番どうかと思うのは、表現を繰り返しそのまま使用することだ。いくら創作した最初は気の利いた表現だったとしても、繰り返して使っているうちに完全に紋切り型の陳腐な表現になってしまう。彼女の大好きなヴィヴィアン・リーと同じく、登場人物がきりきりと「右眉を上げる」仕草。「これから我々がおこすであろうすべての過ちに乾杯」というセリフ。秘めた不倫の恋ややりきれない主婦の侘しさを感じた時に起こる「口の中で舌が喉の方へとめくれ上がっていくような感覚」。些細なことがきっかけで起きる夫婦喧嘩の際の夫のセリフ「人生は○○だ!(○の中は、トーストやパンツなど、夫婦喧嘩の原因となる些事が当てはまる)。そんな夫婦生活に嫌気がさして出奔する時は「歯ブラシ一本だけで」。倦怠に塗れた主婦を誘惑する若いジゴロの身のこなしは「黒い豹のよう」と決まっている。

エピソードや表現、セリフも一言一句まで同じものを多用するとなると、新たな文学作品としての意義は殆ど無くなってしまう。後半の森瑤子の作品群は、文学というよりはむしろ、キャッチコピーや広告商品のようだ。『マイ・コレクション』という彼女のお気に入りの品々に関するショートストーリーを纏めた短編集など、広告業界で仕事をしていたこともある彼女のセンスが窺えて、文学作品とはまた違った面白さがある。『ホテル・ストーリー』、『パーティーに招んで』『デザートはあなた』など、テーマに沿ったショートストーリーを展開する、というスタイルも、最近では人気作家のアンソロジー的な企画で定着しているが、商業的な小説家として時代を先取りしていたと思う。

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