やっと出会えた!という感じの一冊。
昔から外国文学が好きなので、勢い、哲学への興味は湧いてくる。だから、高校生の頃から試行錯誤を繰り返してきた。まずは古典から!とプラトンの『国家』や『饗宴』或いはカントの『純粋理性批判』に挑戦するも、ものの数ページで挫折、それでは体系的な知識をつけてから!と、クラウス・リーゼンフーバーの『西洋古代・中世哲学史』を読み始めたものの、中盤の新プラトン主義あたりで、意味不明なまま字面を追い続けることに耐えきれなくなりそっと本を閉じる・・・もう、自分のような情緒一辺倒の人間には哲学の理解は到底無理、と完全に不貞腐れていたのだが・・・
何気なく書店で買って読み始めたこの本の冒頭から驚かされた。
《よく、日本には哲学がないからだめだ、といったふうなことを言う人がいますね。しかし、わたしは、日本に西欧流のいわゆる「哲学」がなかったことは、とてもいいことだと思っています。》
哲学の名誉教授で権威でもある木田先生のこの大胆なオコトバ。木田先生は、ただ哲学を否定しているのではない。そうではなくて、哲学というものがいかに西洋固有の文化・思考様式に基づいたものであって、本質的に相容れない日本人が理解し辛いか、ということを具体的に説明してくれるのである。だから、ものすごくわかりやすい。
中でも最も特異なことは、「存在するものの全体がなにか」と(わざわざ)問うて答えるような思考様式であり、しかも、その際に、なんらかの「超自然的原理」を設定する、という点。この「超自然的原理」が「イデア」(プラトン)とか「純粋形相」(アリストテレス)とか「神」(キリスト教神学)とか「理性」(デカルト、カント)とか「精神」(ヘーゲル)とか呼ばれる、というのだ。
《しかし、われわれ日本人の思考の領域には、そんな超自然的原理なんてものはありませんから、そうした思考様式は、つまり哲学はなかったわけであり、われわれにとってはそれが当然なのです。ですから、自分のもってもいないものをもっているふりする必要などまったくなかったのです。》
これで、長年のモヤモヤがすっと吹っ飛んだ。
第一章だけで読む価値のある本だが、そうやって日本人が陥りやすい哲学上の理解の誤謬をきちんと整理した上で、哲学というのはいかに根深く西洋の思考回路の基盤になっているかということを、宗教・数学・物理学・芸術・経済学などとの密接な関わりを示しながら歴史的に語ってくれる。本当にこんなすごい本が文庫594円で買えてしまって良いのだろうか。。。
本書の解説で、文芸評論家の三浦雅士氏が「もしも十代のときにこの本に出会っていたら、こちらの人生も違っていただろうと思う。若い時期にこの本に出会える人がまったく羨ましいか限りです。」と述べているが、まさにその通り。木田先生、もっと早く教えてくだされば・・・と私も言いたい。でも、まだ遅くない。これで、長年の哲学に対する劣等感もだいぶ払拭された気がするので、これからはカントもヘーゲルもこわくない!と思いたい・・・が、多分、それは気のせい(笑)
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