書評・小説 『おかあさん疲れたよ』 田辺 聖子

田辺聖子さんが戦争を描いた小説があるというので、珍しいな、と興味が沸いて読んでみたが、ものすごく良かった。また、田辺聖子さんの大好きな引き出しがまた増えたなあ、という感じ。

あとがきで、著者は《「私の昭和」を書きたかった》と語っている。昭和史の中でも特に、「戦中派」と呼ばれる、太平洋戦争時代に生まれた世代をテーマに、彼らの戦後史を描いたものだ。中心となるのは、その「戦中派」世代である昭五とあぐり、そして少し遅れた「戦争を知らない世代」である昭五の妻、美未である。この3人、それぞれに、田辺聖子さん自身が生きていて、キャラクターがものすごく生き生きとしている。

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書評・小説 『ミーナの行進』 小川 洋子

第42回谷崎潤一郎賞を受賞した、小川洋子さんの長編小説。小川洋子さんの小説は結構好きで、ベストセラーになった『博士が愛した数式』から始まって、『薬指の標本』『妊娠カレンダー』『ブラフマンの埋葬』など読んでいる。実は一番好きなのは『ホテル・アイリス』かもしれない。『ホテル・アイリス』は、初老の男と少女の歪んだ性愛を描いたものだが、彼女の小説はどこかに「危うげなもの」「病的なもの」を奥底に秘めている。それが、どぎつく表現されているのではなくて、ちょっと怖い御伽話のように、どこか甘くひっそりとした感じで潜んでいるところが好きだ。

だから、この『ミーナの行進』も、少女の物語なのだけれど、どこかに病的な危うげなものを隠し持っているんだろうなあ、と思って読んでいた。ところがどっこい、この物語は肩すかしなのである。

芦屋のばかでかいお屋敷に住む病弱な少女ミーナ、ペットはコビトカバ、絵に描いたようにダンディでステキな父親は度々別宅に行方をくらまし、母親は一日中煙草室であらゆる印刷物の誤字探しをしている。ドイツからお嫁にきたユダヤ人のおばあさん、孤独な住み込み家政婦の米田さん、ミーナの宝物であるマッチ箱を届けてくれる水曜日の少年、など、「危なげな」要素は満載なのだが、それらは全て、「危なげ」な余韻を残したままで過ぎ去って行く。ミュンヘンオリンピックとバレーボールの熱狂、不思議な光線浴室での仄暗い時間、ジャコビニ流星群の夜、少女たちの恋とも呼べないような淡い恋、、、そういうもの全てが未消化のまま、少女たちは立派に強いオトナになる。いや、未消化というのはふさわしくない、それらをものともせず、乗り越えて、病弱なミーナも母子家庭の「わたし」もオトナになるのである。

読み終わってすぐは、あっけらかんとした不思議な御伽話感に、「なんだかなあ」という感じなのだが、数日すると、じわじわとその良さが沁みてくる。暗くて危ないものに「敢えて」触れない、そのあっけらかんとした明るさと強さが、いつもの小川洋子らしくなくて、なんかいいなあ、と思えてくるのだ。何もないと深みのないおとぎ話になってしまう。でも、本当はどこかに暗い深淵があって、そこに「敢えて」触れていない、という感じ。

読後に検索してみたら、井上ひさしさんの書評が掲載されていて、おんなじような肩透かし感を「背負い投げ」と述べていたので、なるほどなあ、と思った。

この本は再読なのだが、最近、所用があり、久し振りに兵庫の芦屋に行ってきたので、芦屋を舞台にしたこの小説が読みたくなったのである。小川洋子さんは芦屋市在住らしく、ハイソな芦屋を、御伽話の中の外国の街のように仕立て上げているところが面白い。

ミーナのお屋敷は、阪急芦屋側駅の北西、芦屋川支流高座川に沿って山を登った中腹、千五百坪の敷地に建てられたスパニッシュ洋式の洋館である。玄関ポーチやテラスに多用されるアーチ、南東の角に設けられた半円形のサンルーム、オレンジ色の瓦屋根といったスパニッシュ特有のスタイル、南側の庭は日光がたっぷりと降り注ぐよう、なだらかに傾斜しながら海に向かって開けている。庭は昔小さな動物園として公開されており、今ではコビトカバのポチ子の面倒を、専門の庭師小林さんが見ている。

こんなロケーションを日本で設定しようとしたら、芦屋界隈をおいて他には中々望めまい。現実離れした設定ではあるけれど、昭和40年代の芦屋ならもしかしたら、という感じを漂わせている街である。

新神戸駅に大きなぴかぴかのベンツに乗ってお迎えに来てくれたドイツ人ハーフの伯父様、西宮の洋品店で制服を誂えた後、阪急芦屋駅近くの洋菓子屋さんAで食べるクレープ・シュゼット、打出天神の向かいにある石造りの重厚な芦屋市立図書館、六甲山ホテルからシェフとボーイが出張してつくってもらう本式ディナー、現実と虚構ないまぜになった風情が、芦屋を知る者には読んでいてとても楽しい。

芦屋の魅力は、ただ阪神都心に近い高級住宅街というのではなくて、山と海が近い野趣溢れた土地でもあるところである。

芦屋の夏は海の方角から駆け上ってくるようにしてやってきた。梅雨が明けた途端、それまでどんよりと曇った空に飲み込まれてたい海が、鮮やかな色を取り戻し、視界の隅から隅まで一本の水平線を目でたどることができるようになった。光も風も一度海の上に舞い下り、たっぷりと潮の香りを含んでから山裾に向かってせり上がってきた。あれ、海が昨日より近くにある、と思った時が、夏の訪れの合図だった。

小川洋子さんの、芦屋への愛情が伝わってくる一節だ。


ロングアイランドより愛をこめて(From Long Island With Love)

ロングアイランドは、ニューヨーク州の東南部に位置するアメリカ本土最大の島である。ニューヨークとは、ブルックリンとクイーンズ地区を経由して、複数の橋やトンネルで繋がっており、ニューヨーク最大の空港JFK空港も位置している。そういう意味では、ニューヨークのまぎれもない一部なのだけれど、ビルが立ち並ぶマンハッタンとは全く違うニューヨークがそこにある。

最初にロングアイランドに興味を持ったのは、かなりミーハーな理由から。海外テレビドラマでセレブたちが度々訪れる別荘地ハンプトンズの映像に心惹かれたのだ。

セレブドラマの王道『セックス・アンド・ザ・シティ』(略して『SATC』)のシーズン2(第17話)では、お馴染みの4人は「8月には誰もNYにいない。みんなハンプトンズに行ってるから」と、大混雑のバス「ハンプトン・シドニー」に乗って、無理やり手配した古臭い別荘でバカンスを過ごしに行く。『SATC』は、最初の頃は結構NYで働く女子の等身大的な面白さをウリにしていたはずなのに、シーズンを追うごとに主人公たちがどんどんセレブになっていくので、シーズン5(最終話)にもなると、同じハンプトンズが舞台でも、レンタカーで移動し、それぞれがお金持ちの友人知人の庭付きプール付き別荘に泊まり、エレガントなウェディングパーティーやプールサイドパーティーに参加している。

やはりセレブドラマの定番『ゴシップ・ガール』でも、シーズン2の冒頭、セリーナとチャックとネイトとブレアの4人が、ハンプトンズの別荘で夏休みを過ごしているところが出てくる。プール付きの別荘、ビーチ、高級ブランドのショッピング、そして危険な人妻との情事まで、完璧な夏休みのお膳立てが整っているセレブなリゾート地、それがハンプトンズなのだ。

極め付けのハンプトンズセレブを描いたドラマと言えば、『リベンジ』である。『リベンジ』では、ハンプトンズがそのまんま舞台になっており、意識的にハンプトンズの景色や街、そしてビーチや船上のパーティなどハンプトンズセレブのライフスタイルを映像に取り入れている。ドラマ自体は、途中からあまりに破天荒なあらすじに辟易としてきたものの、主人公エミリーの住むビーチが目の前に広がる別荘風の家、ノーランの住むプール付きのモダンな家、そして何より、グレイソン家の超エレガントでゴージャスな邸宅、と、ロケーションやインテリアを見ているだけで面白く、結局最終シーズンまで観てしまった。

最近のテレビドラマだけではない。ハンプトンズをはじめとするロングアイランドは、昔から何度も映画化されている。古くは『麗しのサブリナ』。オードリー・ヘプバーン扮するサブリナがお仕えするのは、ロングアイランドの大邸宅に住むララビー家である。ダイアン・キートンとジャック・ニコルソンの二大俳優の名演技を楽しめるオトナなラブコメディ映画『恋愛適齢期』は、2人が週末を過ごすエレガントな別荘、目の前のビーチでするピクニック、フランス語が通じる地元の高級スーパーなど、ハンプトンズの魅力が満載である。ちょっと異色なものを挙げると、ジェシカ・ラングとドリュー・バリモアが、失われたハンプトンズセレブライフの幻影の中に生き続けるエキセントリックな母娘を演じた『グレイ・ガーデンズ 追憶の館』なんてのもある。

『麗しのサブリナ』でハンフリー・ボガード扮するララビー家当主ライナスは、マンハッタンのララビー本社ビルにお抱え運転手付きの車で通っているし、『グレイ・ガーデンズ』でも、裕福な時代、家族たちはロングアイランド鉄道や自家用車で、ニューヨーク中心部とハンプトンズを行ったり来たりしている。『恋愛適齢期』では、ブロードウェイの売れっ子作家エリカやニューヨークの音楽業界で活躍するハリーが、週末の骨休めとして訪れる場所になっている。かように、ロングアイランドは、ニューヨーク中心部で繰り広げられる、華やかなセレブリティや多忙なエリートビジネスマンの生活と直結しながら、それでいて別世界でもある、という非常に特殊で、だからこそ魅力的な場所なのである。

ロングアイランドは、映像作品ではお馴染みの場所だが、文学的作品となるとどうか。ロングアイランドを舞台とした文学作品と言えば、なんと言っても、スコッツ・F・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を置いて他にはない。ギャツビーが夜毎繰り広げるパーティーの乱痴気騒ぎ、海沿いに浮かぶように建つ大邸宅、長いクイーンズ・ボロ橋を渡ってマンハッタンと行き来する様子、そして、そのふもとには貧しい「灰の谷」(クイーンズ地区のコロナ・ダンプがモデルとされる)が広がっているなど、当時のロングアイランドの風景がよく伝わってくる。

『グレート・ギャツビー』で、ギャツビーやデイジーが住む「ウエスト・エッグ」と「イースト・エッグ」という架空の街は、ロングアイランドの北側の地域がモデルになっているとされる。半島の南端部にある「ハンプトンズ」とは違い、北側のこの地域は、大戦前からの有数の大富豪が大邸宅を構える最高級住宅地だ。この、庶民からは想像もつかない大富豪たちの生活ぶりを描いていて面白い小説がネルソン・デミルの『ゴールド・コースト』である。

「ゴールド・コースト」と言うと、今では、オーストラリア東海岸の美しいビーチを連想してしまうが、かつては、ロングアイランドのノースショアもこう呼ばれていた。ここには、まさに「ロングアイランド貴族」とでも言うしかないような人々が、大邸宅というよりは大荘園といった方がいいようなところで暮らしていたのだ。『ゴールド・コースト』の主人公ジョン・サッターの言を借りれば、

ここは掛値なしにアメリカじゅうで最高級の住宅地で、これにくらべれば、たとえばベヴァリーヒルズとかシェーカーハイツとかですら、おなじタイプの家がずらりと並ぶ建て売り住宅街に見えるほどだ。都会や郊外のセンスでいう住宅地ではなく、ニューヨーク州ロングアイランドにある植民地時代の村と大荘園の集合なのである。・・・ここは、古い金(オールドマネー)、古い家族、古い社会の美徳、それに、だれにここの土地を所有する資格があるかはいうに及ばず、どの候補者への投票なら許されるべきかについてまで、古い観念が支配する世界である。

『ゴールド・コースト』

ちなみに、この主人公のジョン・サッターの母方姓は「ホイットマン」であり、アメリカの大詩人ウォルト・ホイットマンの末裔であることが度々言及されている。『草の葉』で有名なホイットマンは、ロングアイランド出身だが、自身は教師や公務員として働き、貴族やセレブリティとは無縁の一生だった。ヒューマニストとしても知られるホイットマンの末裔が、超絶格差社会の頂点に立つロングアイランド貴族となっている、というのも、いかにもアメリカ的と言えばそれまでだが、なんとも皮肉な話である。

言及される文豪はホイットマンだけではない。この小説の中では、主人公がフィツジェラルドの『グレート・ギャツビー』のギャツビー邸について、どのあたりの場所なのか、想像をめぐらすシーンが出てくる。

ギャツビーの伝説的な邸宅の場所は地元のいろいろな説や文学的評論の対象になっている

『ゴールド・コースト』

と、主人公が語る通り、ロングアイランドに住む者もそうでない者にとっても、「グレート・ギャツビーとロングアイランド」は、切っても切れない枕詞のような関係にあるのだ。ロングアイランドと言えばギャツビー、ギャツビーと言えばロングアイランド。

『ゴールド・コースト』のジョン・サッターは、ギャツビーの邸宅をサンズ・ポイントにあるグッゲンハイムのファレーズ屋敷、そして、彼のかなわぬ恋の相手、デイジーが住む邸宅を、その北にある岬にある白いコロニアル式の大きな家、と自分なりの予想をつけた後で、こう語る。

そしてギャツビーが彼の邸から入江越しに夜な夜なみつめていた桟橋の突端にゆらめく緑色の光ーそう、わたしは夏の夜にヨットからのその光を見たことがある。スーザンも見たのだー桟橋がそこで終わっていたと思われるあたりの、水の上に浮いているように見えるすばらしい輝きを。

『グレート・ギャツビー』のもう一つの枕詞と言えば、この「緑の灯」(green light)である。ギャツビーが、夜な夜な、憧れのデイジーが住む対岸の邸宅を眺める時に灯っている緑色の光。文学的に解釈すれば、ギャツビーの永遠の憧れ、夢、羨望、理想を象徴しているということになるだろう。

村上春樹は、チャンドラーやカフカやドフトエフスキーと並んで、フィツジェラルドを愛することで有名だが、彼の最新作『騎士団長殺し』には、この「緑の灯」のモティーフが出てくる。主人公が仮住まいしている小田原の山奥にある邸宅は、狭い谷に面していて、その谷間の向かい側には、まるでギャツビーのように謎めいて孤独で裕福な「免色さん」の邸宅があるのだ。主人公は毎晩テラスに出て、白いコンクリートと青いフィルターガラスをふんだんに使って建てられたモダンな邸宅が、まばゆい光に照らされているところを眺めている。そしてまた、後から分かるように、その「免色さん」もまた、対岸にある、実の娘の住む家を、高性能の望遠鏡で眺めている。海でこそないが、谷を挟んだ「対岸の家の光」をある種の感慨をもって夜な夜な眺めるという、『グレート・ギャツビー』の「緑の灯」と全く同じモティーフが使われていることが分かる。

『ゴールド・コースト』では、ロングアイランドは、超絶的各社社会の象徴であると共に、失われた偉大なアメリカの象徴でもある。ジョン・サッターが「緑の灯」について回想する部分はこう結ばれている。

でもわたしはこのことを子供たちに話してやりたいと思う。彼らにめいめい自分たちの緑色の光をみつけろとはなしてやりたい。そして心から望むのだ、夏の夜の魔法のようなひととき、疲れた国家がしばし立ちどまって過去を回想し、かつてこの世界がどんなに見え、どんな香りがし、どんな感じがしていたか、父親や母親と手を握り合うという単純な行為から至高の慰めを引き出すのがどんなにいいことだったか、国民のひとりひとりが思い出してくれることを。デイジーの家のいまはない桟橋の突端にわたしが見る緑色の光は未来ではない。過去なのだ。そしてそれは、わたしがいままでに見たただひとつの慰めに満ちた前兆(オーメン)なのである。

ロングアイランドは不思議な場所だ。そこには、アメリカの格差社会を象徴する度肝を抜くような富の集中があり、それを揶揄し、それでも憧れ続けてきた民衆の眼差しがある。ギャツビーが愛した「緑の灯」、永遠にかなわない憧れ、全ての美と愛と、そしてなによりも富と成功の象徴として、対岸で静かに揺れる灯火・・・という風景は、今や、多くのアメリカ人とその文学を愛する者達にとって、ロングアイランドの(あるいはそれが象徴するアメリカ的成功と格差と憧憬と挫折の)原風景になったのである。

【参考】

  • TVドラマ『Sex and the City』
  • TVドラマ 『Gossip Girl』
  • TVドラマ 『Revnge』
  • 映画『麗しのサブリナ』
  • 映画『恋愛適齢期』
  • 映画『グレイ・ガーデンズ 追憶の館』
  • F・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(村上春樹訳 中央公論新社)
  • ネルソン・デミル『ゴールド・コースト』(上田公子訳 文春文庫)
  • 村上春樹『騎士団長殺し』(新潮社)
  • サイト 『Wikipedia 』→こちら
  • サイト 『チェコ好きの日記』→ こちら
  • サイト『マイナビ ニュース』ビジネス連載「世界の街角から」第21〜2回 → こちら


書評・小説 『休暇は終わった』 田辺 聖子

夏にぴったりの一冊。

『ジョゼと虎と魚たち』の記事で、私が好きな田辺聖子小説のエッセンスともいうべきものを綴ってみたのだが、これが、まんまあてはまる作品である。むしろ、この作品を意識して記事を書いた、みたいなところがある。自立した女性と女心のバランス、魅力的なオトナの男と若い男、それから、関西弁や関西独特の風俗やロケーション、どきっとする言葉とタイトル。もちろん、美味しそうな食べ物も。

作家の仕事もうまくいきはじめた30初めの女主人公悦子。若くて美しいけれど、何をやっても続かないだらしない男で、彼女につきまとってヒモのような生活をしている類。そこに現れる類の父親の入江。この父親が『恋にあっぷあっぷ』の記事でも書いたような、ユニコーン並みに実在を疑われるほど魅力的な「デキブツ」男なのである。彼の連れて行ってくれるデートは、田辺聖子さんの小説ではお馴染みのロケーションなのだが、分かっていても、やっぱりいちいち素敵である。

日本海に抜ける街道沿いに車を走らせて連れて行かれた鮎茶屋では、新鮮な天然鮎をあたまから食べるやり方を教わる。六甲山上のホテルでは、庭にいくつも提燈を下げたテラスで、炭火焼いたステーキを食べる。それから鄙びた山の中の料理屋旅館のようなところでは山菜のてんぷらや梅のたれでたべる蒟蒻、山梨の実のたいたものや胡麻豆腐などの箱膳が供される。

で、言う言葉がこれ。

「喜ばせ甲斐のある人というのは、可愛げがありますなあ。あんたは一万人に一人の人ですね」

私がくどいほど、「こんな魅力的なオッサンいるわけないだろ!」と半ば怒りを感じる理由がお分かりか。まあ、その怒りの99%はやっかみである。

でも、この作品のいいところは、その息子のどうしようもない男、類の姿が描かれているとこだ。悦子が昔付き合っていた野呂という男もそうだが、彼らの「ダメ男」ぶりと、それに惹かれてしまう悦子の「ダメ女」ぶりの方が、リアリティがあって良いのである。

私はそこに、彼の可愛げみたいなものを見るのである。もしかしたらそれは「若さ」の可愛げかもしれない。彼にはあんまり定見なんてものがなくて(もしくはまだできていない)、どっちにでもころびそうな感じ、私は正直にいうと、そこが類の好きなところである。要するに類は、何もかもがまだホンモノになっていないのだった。

「何を考えてんのん」私がだまると類はすぐ、いう。そんなこという人、自分の中がっからっぽの人。

結局、悦子は類と別れるが、また、「デキブツ」の父親をも選ばない。オトナの御伽話は、甘いばかりではなくて、ほろ苦いものであることを、田辺聖子さんはよく知っているのだ。

それから、ドキッとするような言の数々。

また、ほんとうはそうじゃなく、男と女と金、という三つ巴は、もっと深いからみあいかたをするものなのである。長く生きてると、あとになってわかるものである

「幸福と面白いこととはちがいます。幸福というのは、面白いことが無くても成り立つ。」ふーん。「たとえば、会社は隆々栄えて儲かり、女房は機嫌よく、子供は健康で順調にすくすく伸びてる。そういう風なとき、男は、幸福と思うやろうなあ。しかしそのとき面白いか、というと、そう思うてないのやねえ、これが」

私は、「幸福でない」ということに拘っていた。私は女だから、幸福と面白いこととを結びつけるのが本当のような気がしていた。

そしてラスト。

つまり、その一枚の写真が、夏の決算報告書というわけだった。私はそれを破った。

夏は過ぎた。私の休暇は終ったのだ。

最後の最後の一文で、タイトルに戻ってくる、この印象的なラストは、読んだ人だけが味わってほしい。


書評・小説 『ジョゼと虎と魚たち』 田辺聖子

ことし6月、田辺聖子さんの訃報を聞いてから、また読み直したいなあ、と思いながら、ずるずると日が経ってしまった。「多作」というだけであまり良いイメージをもっていなかった私が、今から10年くらい前だろうか、田辺聖子さんの本を読むようになったきっかけとなった本だ。久しぶりに読んで、うん、やっぱり、私の好きな田辺聖子さんのエッセンスが詰まった短編集だなあ、と思った。

で、今回は少し、そのエッセンスをまとめてみたいと思う。もちろん、田辺聖子さんは引き出しの多い作家さんなので、ここに挙げたのは、あくまで私が個人的に好きな部分ということだけど。

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