デュ・シャトレ侯爵夫人


デュ・シャトレ侯爵夫人・本名ガブリエル・エミリー・ル・トノリエ・ド・ブルトゥイユは、1706年、ヴェルサイユ宮廷で外国大使の紹介役を務めるブルトゥイユ男爵の娘として生まれた。ブルトゥイユ男爵は59歳で得たこの利発な娘を寵愛し、専門の家庭教師を何人も雇い、自由に図書室を行き来させ、当時の女性としては破格に高度な教育を受けさせた。エミリーはたちまち貪欲に知識を吸収し、数学や物理、ラテン語やイタリア語、英語などの外国語や古典学などに精通した。ウェルギリウスと共にタッソーやミルトンにも親しみ、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』を愛読し、15歳で『アエネイス』を翻訳して父親を驚かせたと言う。

ブルトゥイユ家では両親がサロンを開いており、エミリーは10歳の頃からこのサロンに出入りして、詩人ジャン・バティスト・ルソーやサン・シモン、フォントネルといった当代随一の知識人と接することができた。特に、当時王立科学アカデミーの終身書記を務めていたフォントネルの『世界の複数性についての対話』は、彼女の天文学や科学への興味をかきたてた。生涯の愛人となるヴォルテールとも、両親のサロンで出会っているが、まだ10代の少女であったエミリーと若手詩人として活躍するヴォルテールとの間に愛が芽生えるまでには、まだ数十年の時が必要であった。

彼女は18歳の時に、フロラン=クロード・デュ・シャトレと結婚する。婚家のデュ・シャトレ家は11世紀に十字軍に従軍した騎士の末裔で、系図はあのカール大帝の血筋に繋がるロレーヌ公にさかのぼるという名門貴族で、代々軍人の家系であった。無骨な軍人であるデュ・シャトレ侯爵は、教養と才気溢れる妻を敬愛し、パリのサン・トノレ街にあるシャトレ家の館に住まわせて好きにさせた。デュ・シャトレ侯爵夫人となったエミリーは夫との間に二人の子をもうけながら、パリの社交界でカヴァニョルを始めとしたギャンブルに熱中したり、下ブリアン伯爵やリシュリュー公との愛人関係を楽しんだり、華やかな生活を送っていたが、26歳の時にヴォルテールと再会する。

38歳のヴォルテールと再会したデュ・シャトレ侯爵夫人は恋に落ち、ヴォルテールがフランスのアンシャンレジームを徹底的に批判した『哲学書簡』を著したことで逮捕処分となると、シャンパーニュ地方の僻地にあるシレー城に彼をかくまった。やがて、ヴォルテールを追ってデュ・シャトレ侯爵夫人もシレー城に落ち着き、「シレーの時代」と呼ばれる2人の愛と学究の日々が始まる。

赤木富美子氏は、昭三氏との共著『サロンの思想史』の中で、デュ・シャトレ侯爵夫人とヴォルテールの「シレーの時代」の共同研究について、主に以下の4点を挙げている。

⑴まずヴォルテールの草稿『形而上学論』となって残った哲学や道徳についての思索、およびこれに密接にかかわるものとして、デュ・シャトレ夫人によるマンデヴィルの『蜂の寓話』の翻訳

⑵聖書の批判的研究で、現在トロワの市立図書館にある長大な未刊の写本作品『聖書の検討』として残ったもの、およびこれに関連する仕事として、最近発見されたウルストンの『われらの主の奇蹟についての六つの講話』の翻訳

⑶彼女の業績としてはもっとも重要な『物理学教本』その他、物理学関係のさまざまな著作や論文、およびニュートンの主著『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』の全訳とこれに付け加えた詳細な注釈

⑷そして最後に『幸福論』

『サロンの思想史 デカルトから啓蒙思想へ』 赤木昭三・赤木富美子

『蜂の寓話』は、オランダ生まれのイギリスの思想家であるバーナード・マンデヴィルが1714年に著した著作で、自己の利益の追求が最終的に社会に有益をもたらすというメッセージで、当時のヨーロッパの楽観的啓蒙主義とキリスト教的博愛主義に大きな衝撃を与えた。

チェコ共和国の経済学者トーマス・セドラチェクは、『善と悪の経済学』の中で、マンデヴィルの『蜂の寓話』を取り上げ、現代の自由放任主義的な「見えざる手」の考え方は、アダム・スミスではなくむしろマンデヴィルに帰する、と主張している。根本的なキリスト教的価値観に挑戦し現代の合理的資本主義に繋がる思想を内包していたこの作品に、シャトレ侯爵夫人が注目し、わざわざフランス語への翻訳を買って出たことは、彼女の聖書の批判的研究と考え併せて非常に興味深い。

『物理学教本』は息子の教育の為にヨーロッパのあらゆる科学研究をまとめるという体裁をとりつつ、450ページあまりの大作として出版された。ライプニッツの形而上学とニュートンの物理学を結び付けようとするこの野心的な大著は、当時のフランスの学者たちから高い評価を受け、数学者モーペルチュイ(彼女の師でもありかつての愛人でもあった)が雑誌『メルキュール・ド・フランス』で絶賛し、科学アカデミーの正式会員である物理学者メランやスイスの夢イな数学者ケーニッヒが論争に参加するなど、彼女の名前をヨーロッパ中に知らしめた。

ニュートンの主著『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』の全訳は、彼女の晩年のライフワークとなり、1949年9月に彼女が息を引き取る直前に完成した。この全訳は彼女の死後10年を経て出版され日の目を見たが、それから二百年以上もの間、フランスで何度も復刻され、古典的名著となっている。

デュ・シャトレ侯爵夫人は、このように、フランスだけでなくヨーロッパを代表する女性科学者として、ノーベル賞を受賞したキュリー夫人と並び称されるほどの功績を残したが、プライベートでは直情的でギャンブル好き、破天荒な恋多き女性でもあった。

ヴォルテール先述の著書で、赤木富美子氏は、当時パリを代表するサロン主であったタンサン夫人とデュ・シャトレ侯爵夫人の間に親交があったことに触れ、対照的な2人の性格についてこう述べている。

が、タンサン夫人にとって、この年若い女性科学者は、その才能は認めることができても、ヴォルテールにたいする恋愛は理解の外であった。「デュ・シャトレ夫人はかつてないほどヴォルテールに夢中です。彼女はブフレール夫人にたいする嫉妬を私に語りに来ますが、私は何といっていいかわかりません。頭も心も捕らわれてしまっていて、鼠の足音にも脅えるよおうな人にどんなふうに言って聞かせたらいいのでしょう。・・・完全にいかれてしまっていて、かわいそうでなりません。」あるいはまた、「彼女は今夜あらゆる小説を一緒にした以上に恋に狂い、めちゃくちゃになって出発します。哀れなことです。」

『サロンの思想史 デカルトから啓蒙思想へ』 赤木昭三・赤木富美子

ヴォルテールとの関係も、元々はヴォルテールからアプローチし、デュ・シャトレ侯爵夫人は数学者モーペルチュイと天秤にかけているような状態だったが、長い「シレーの時代」の共同生活の中でいつしか彼女が追いかける方に回っていた。彼女は強烈な愛情でしばしばヴォルテールを束縛し、ヴォルテールを寵愛して自分の宮廷に招こうと画策するプロイセン国王フリードリヒに張り合ったりした。ヴォルテールは彼女を終生敬愛し付きたが、次第に男女の情は彼の中で薄れて行き、若い愛人に心を移すようになる。

やがて、ヴォルテールへの愛に苦い心を抱えたデュ・シャトレ侯爵夫人は、彼と共にロレーヌ公国のリュネヴィル城に招かれ、そこでサン・ランベール侯爵と恋に落ちる。リュネヴィル城では王スタニスラスの公式な愛人ブフレール夫人が、ヴェルサイユ宮廷に勝るとも劣らない豪華なサロンを開いていた。コンティ公、ベリール元帥、トゥール司教、エノー院長らフランスじゅうの身分の高い人々からイエズス会士、フィロゾフ、イギリスからはモンテスキューに至るまで、あらゆる知識人、教養人がリュネヴィル城を訪れた。デュ・シャトレ侯爵夫人は、よりによって、この城の実質的な女主人であるブフレール夫人の愛人であったランベール侯爵を熱烈に恋してしまうのだが、幸いブフレール夫人は新たな若い恋人に心を移しており、デュ・シャトレ侯爵夫人に怒りを向けることはなかったと言う。

結局、デュ・シャトレ侯爵夫人は40歳を過ぎて愛人ランベール侯爵の子供を身ごもってしまい、くされ縁のヴォルテールまで巻き込んで夫のデュ・シャトレ侯爵との間の子供であるという偽装工作をするものの、産後の肥立ちが悪くそのまま子供と一緒に43歳の短い生涯を終える。

翻訳家という立場からデュ・シャトレ侯爵夫人の数奇な人生に興味を持ち、彼女の生涯について記した『火の女シャトレ侯爵夫人 18世紀フランス、希代の科学者の生涯』で、著者の辻由美氏は最後にこう結んでいる。

愛と学究、それは生涯をつうじてエミリに生きる喜びをあたえた二つの情熱だったが、彼女の命を奪ったのも、この二つの情熱であった。情熱、それは彼女の生であり、そして死であった。そのような死を、不幸と呼ぶことができるだろうか。

『火の女シャトレ侯爵夫人 18世紀フランス、希代の科学者の生涯』 辻由美

《参考》

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