書評・エッセイ 『残花亭日暦』 田辺 聖子


田辺聖子さんのエッセイ。2001年6月から始まり年明けて2002年の3月までを日記風に綴っている。

前半は、田辺聖子さんのお仕事や生活ぶりが垣間見えて楽しい。2001年だから執筆当時は御歳73歳ということになるが、まあ、精力的な活動ぶりには恐れ入る。90を超える老母と病気で身体の不自由になった夫とを抱えながら、仕事では様々な方と対談したり各地に講演会に出かけたり、とにかく八面六臂の活躍である。特に、著名人の方との対談模様が面白く記されていて、冒頭の林真理子さんはじめ、黒柳徹子さん、瀬戸内寂聴さん、このブログでも著書『江戸はネットワーク』を取り上げた法政大学学長の田中優子さんや、雑誌の企画で『森瑤子の帽子』の著者島崎今日子さんのお名前が出てくるところも、著者の活動範囲の広さが偲ばれる。

田辺聖子さんがぬいぐるみと本気で会話しているところは、『ほっこりぽくぽく上方さんぽ』の記事の中でも触れたが、この本では当然のように等身大スヌーピーのスヌーやエアデール・テリアのぬいぐるみカッちゃんらと喧嘩やら慰さめやらのやり取りが繰り広げられる。こういう様子が、たとえば『ジョゼと虎と魚たち』の中の短編「それだけのこと」なんかに自然に取り入れられている。

グルメ描写にも定評ある田辺聖子さん、何気なく記された献立も魅力的である。ある初夏の晩ごはんは《五目豆(わが家で煮いたもの)、鮎の塩焼き、冷や奴、たこ酢、焼き茄子》《鮎の塩焼き。こんにゃくと青菜の白あえ。すじ肉の土手焼き。お刺身。モロヘイヤのスープ》或いは《お刺身(赤貝とかんぱち)。あさりの酒蒸し。鱸の塩焼き。そら豆の塩茹で。焼き茄子。鱧の皮と胡瓜の酢のもの》。小説の中でもそうなのだが、季節感と関西風土を絶妙に取り入れたグルメ描写が食いしん坊読者にはたまらないのである。このエッセイの中でもよく鮎が出てくるので、田辺聖子さん鮎好きなんだなあ、と思っていたら、なんとご自身で鮎茶屋を所有している旨の記述まで出てくる。『休暇は終わった』『おかあさん、疲れたよ』などの長編小説の中でも、山奥の鮎茶屋というのが魅力的なロケーションとして出てくるが、ご自身で所有されているほど愛しているのか、なるほど、とある意味納得してしまった。

そんなのほほんとした序盤から、8月に旦那さんこと<おっちゃん>の容体が悪化し、事態は急展開する。この本のメインは、その闘病生活というか、田辺聖子さんが旦那さんの看病に奮闘し最期を見送るその心境、なのである。この部分は実際に細かいやりとりを追っていかないとニュアンスが伝わらないと思うので、説明は省くが、綺麗事ばかりではない老いた夫婦間の闘病生活、それでも、最後に力尽きる彼を看取る田辺聖子さんの気持ちを綴ったところは読んでいて切ない。

私は、といえば、あの淋しがりの彼が、独りで昏い洞窟で私を待ってるのかと思うと、涙が出てきた。

かわいそう。

そしてふと思った。<かわいそう>と思ってくれる人間を持ってるのが、人間の幸福だって。<愛してる>より、<かわいそう>のほうが、人間の感情の中で、いちばん巨きく、重く、貴重だ。

(略)ちょっと前、まだモノがいえた頃、彼はいったではないか。

<あんたかわいそうや>

<ワシはあんたの味方や。それ、いいとうて>

ー彼も、かわいそうや、といってくれたんだ。

(略)

パパが<あんたかわいそうや>といってくれたのを思い出して、私は心がおちついた。私も、そんなことをいってくれる人がいた、というのは、ありがたいことだと思えるようになった。生きてる甲斐、夫婦(いっしょ)になった甲斐があった、というもんだ。

田辺聖子さんと旦那さんの情愛とユーモア溢れる関係は、彼をモデルにした「カモカのおっちゃん」シリーズを読めばよく分かる。この本の中で、病気と老で時々手がつけられないほど我儘になったおっちゃんを、最期の最期までかいがいしく面倒を見る様子からも、その情愛の深さが窺える。本当に理想的な夫婦に思えた。しかし、この作品の後書きで、林真理子さんはこう記している。

まだお元気だったご主人と田辺先生そしてこの日記にもよく出てくる編集者の村田さん、私の四人でお酒を飲みに行った時のことだ。(略)ご主人と二人、甘い声でカラオケをデュエットなさった。正直なことを言えば、ファンのひとりとして「ご主人はどうしてこんなにイバってるんだろう。田辺先生ほどの大作家が、どうしてこんなにご主人に気を遣っているんだろう」と不思議に思わないこともなかった私であるが、肩を寄り添って歌うお二人を見ているとそんな気持ちは微塵もなくなった。

これを読んで思わず苦笑してしまった。そして、夫婦ってなんだろう、としばし考えてしまった。林真理子さんのある意味正直な感想は、結婚生活も10年を超えてくるととてもよく分かる。映画や小説では魅力的な男性はいっぱい出てくるけれど、実際に他人の旦那で「あら素敵」なんて思う人は滅多にいない。もううちの旦那なんて、、、と不満が溜まっていても、他の夫婦を間近に見たり、妻サイドから伝わる不満や愚痴と照らし合わせれば、「あっちの旦那が良かったわ!」なんて思うことはまずなくて、「まあ、みんなこんなものか」或いは「まだマシか」なんて、変に慰められたり(多分、こっちだってそう思われているに違いない)。

そう言えば、作家の森瑤子さんも、頑固で亭主関白なイギリス人のパートナーと「どうして別れずにいるのか」と、周囲は気を揉んでいたのが『森瑤子の帽子』を読むと分かる。だけど、彼女にとっては旦那さんとの関係、夫婦の関係について書きたい、というのが作家としての重要な核になっていたのだし、末期癌が分かって最期の日々を一緒に過ごす人として選んだ大事な大事な最愛の人だったのだ。

長い人生や老いということまで考えると、夫婦間の愛情も、若い頃思っていたような単純な形ではない、ということが段々分かってくる。この本だって、<おっちゃん>が亡くなった直後で終わっているから、夫婦愛もしみじみと迫ってくるが、よくよく考えれば、その後、田辺センセイは二十年以上も元気に活躍されるのである。《独りで昏い洞窟で待っている》のを《かわいそう》と言いながらも、まだ二十年生きられる女の強さよ。<おっちゃん>も「待たせすぎや!」と突っ込んだかもしれない(笑)。森瑤子さんの旦那さんは、彼女を看取った後、今では別の方と再婚して、彼女の遺産として受け取った離島で暮らしていると言う。

パートナー無しで元気に二十数年を過ごしたり、別のパートナーと再婚したり、、、だからと言って、その夫婦のその時の愛情が本物ではない、とは言えないと思う。きっと若い頃なら、本物じゃない、と思っただろう。でも、今はそういう風には思わない。「永遠に続く」という意味では、確かにその愛は「幻」だったのかもしれないが、少なくとも「偽り」ではなかった、そんな風に思う。

何はともあれ、結局、最後は自分、なのだ。たとえ周りから見たら「?」と首を傾げたくなるような相手でも関係ない。田辺聖子さんや森瑤子さんのパートナーが、彼女たちの「作品」の中では素敵に描かれているのも、創作という枠を超えて、彼女たちの愛がパートナーを輝かせているからなんだと思う。パートナーを輝かしく映し出すのも自分。最後は自分ひとり。そういう自戒が胸に迫る、結婚15年目である(笑)

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