書評・小説 『満州国演義 八 南冥の雫』 船戸 与一


第8巻では、初戦の快進撃から一転、ミッドウェー開戦から一気に日本軍は戦局不利となり、アッツ島、マーシャル諸島、ガダルカナル島など南太平洋の重要拠点で次々と惨敗し、東南アジアでは最大の作戦インパール作戦で敷島兄弟の次郎が無残な死を遂げるまで、が描かれる。

日本軍の暗号は解読されて軍事的戦略は次々と失敗、戦闘機はほぼ破壊され、兵站も破綻している中で、南太平洋では無謀な戦いが続けられる。ガダルカナル島では、戦闘の死者よりも、餓死した者の数の方が多く「餓島」と渾名される。そして、大日本帝国陸軍の無謀ぶりを語る絶望的な例の最たるものとして、作者がもってきたもの。それが、昭和19年に開始された、援蒋ルート遮断を目的としアラカン山系を超えてインド領インパールに侵攻するという「史上最悪の作戦」=「インパール作戦」である。

「牟田口はいわば小型東条英機と言ってもいい。やたらと精神論を振りまわすだけで、近代戦の何たるかがわかってない。盧溝橋事件やマレー進攻の際の自慢話に終始し、じぶんには天佑神助があると法螺を吹く。反対意見には耳も貸さず、理を唱えようとする参謀はすぐに更迭してしまう。東条英機が天皇の信任を楯に重臣たちの意見を無視するだけでなく参謀総長まで兼任したように、南洋での島嶼作戦の失敗を取り戻すべくチャンドラ・ボースの言葉に乗ってインド進攻を決定した東条 の虎の威を借りてアラカン山系越えという無謀な作戦を成功させて大将に昇り詰めたがってる。昇進欲や権勢欲の亡者でしかない」

「兵站はどうなってる?インパール作戦をこれまで何人もの参謀が反対して来たのは常に兵站に問題があるからだと聞いているが」「三個師団とも二十日ぶんの食糧しか携帯しない。しかも、水に漬ければすぐに食える乾飯を二十日ぶん。アラカン山系には三千米を越す高峰もあるし、密林のなかを進む。なるべく軽装でなきゃならない。だから、糧秣だけでなく、毛布や外套のような重荷になるものは携行しない。また傷病患者や捕虜などは進撃の妨げになるんで、監視をつけて途中に残し、作戦完遂後に収容する。砲も重いんで各師団とも野戦山砲や速射砲程度にすると言いはじめた」「本気なのかね、牟田口司令官は?」「何が?」「わずか二十日間の糧秣でどうしてインパールを三週間で攻略するという目標が立てられるんだね?」「成吉思汗作戦ですよ」「何だって?」「大蒙古帝国を建設した成吉思汗に倣って牟田口司令官はそう命名した。成吉思汗は進撃とともに敵の糧秣や武器を奪ってそれを使用した。同時に、輸送手段だった駄馬を途中で殺して食った。第十五軍はこの方法でインパールを攻略することになる」次郎は一瞬、言葉を失った。牟田口廉也中将はほんとうに本気でこんなことを考えているのだろうか?本気だとしたら、自分には天佑神助があると他の将官や佐官に投げ掛けている言葉も冗談じゃないのだ。こんな司令官の命令によってインパール作戦は敢行されようとしている。次郎は思わず下唇を舐めた。

こういうのを読む時、この国の大組織で働いた経験がある者はみな、思い当たる節があり過ぎて、暗澹たる気持ちになるのではないか。理屈を解さない精神主義の無能な指導者たち、その指導者たちの権勢欲のために動かされる現場、そして無謀な遂行の為に結論から逆算して作文したような作戦・・・しかも、その為に犠牲になるのは、組織の資金だとか組織員の生活とかではない、何万もの人命そのものなのだ。「分かる」という思いと「この国は変わっていない」という思いと、そして、それがもたらしたあまりに不幸で残酷な結果の壮大さの前には、言葉を失うしかない。

次郎の予想通り、駄牛を連れて東南アジアの山岳地帯を越えるという、現実を甚だ無視した成吉思汗作戦はのっけから大失敗、精神論を唱えるだけの司令官に呆れ果てて航空部隊も援護を諦めてしまい、密林の中で食料も弾丸も耐えた日本兵達は次々と餓死していく。補給が無ければ戦いにもならないのは当然のことなのだが、精神論に終始する司令部は撤兵することは断じて許さないの一点張り。ついに、第三十一師団長が上層部である第十五軍の命令を無視してコヒマ撤退を断行。

「師団ごと陸軍刑法第四章抗命罪を犯すことは帝国陸軍史上はじまって以来だ。(略)だが、わたしに言わせれば、狂ってるのは牟田口第十五軍司令官のほうだ。(略)とにかく、第十五軍はもはや軍としての体裁すら整えてないんだ。にも拘わらず、牟田口司令官は成吉思汗作戦と名づけた無謀な作戦を敢行した責任を微塵も感じてない。(略)わたしは斃死していく兵士たちを何十人もこの眼で見て来た。行きながら傷口を蛆に食われていく兵士たちをね。その兵士たちが死に際に漏らす言葉はほとんど牟田口司令官や東条首相にたいする怨嗟だった。牟田口の馬鹿野郎、東条の馬鹿野郎。兵士たちはそういう声を残して死んでいった。雨季のアラカン山系で兵士たちはそうやって死体となっていく。やりきれない光景はおそらく一生わたしの脳裏から消えることはない」

食糧もなく敗走する兵士達に、仲間の死体を葬る余力はない。力尽きた者には生きながらに蛆がたかり、死んで数日もすればきれいに食べ尽くされて白骨化されるので、人々はこれを「虫葬」と呼んだという。

この物語の主人公の一人である敷島次郎もまた、撤退途中で赤痢に罹り、最後のチンドウィン河渡河を目前にして、力尽きる。トレードマークの左目の眼帯を外すと蛆がわいている。第五章「虫葬の大地」の章名が、彼の運命を予言している。夜半にこの章を読み終わった私はどうしても明け方まで眠れなかった。インパール作戦が象徴する、大日本帝国陸軍のあまりの愚劣さ、そしてその結果のあまりの残酷さ。

「柳絮のように生きたい」と、日本の既得権益をすべて否定し、満州馬賊として生きる道を選んだはずの敷島次郎。その彼が、この大日本帝国陸軍の愚劣さの象徴であるインパール作戦に巻き込まれて、虫葬の大地に遂に倒れるという皮肉。この時代の日本人がいかに生きるべきだったのか、どんな道を選んだら正解だったと言えるのか?その虚しい問いまでもが、この大地に葬られてしまったような気がした。

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