書評・小説 『満州国演義五 灰燼の暦』 『満州国演義六 大地の牙』 船戸 与一


船戸与一遺作となる『満州国演義』シリーズの第5巻と第6巻。第5巻では、内蒙古、回族、ウイグル、トルコ、そしてドイツやソ連などの列強国を巻き込みながら、燻り続ける満州問題はやがて日本対中国の全面戦争、支那戦争へと拡大していき、戦火は上海から現在も大きな禍根を残す南京事件へと広がっていく。第6巻では、日本では軍部独裁への準備が着々と進んでいき、世論もそれに迎合していく中で、ロシアと中国に挟まれて徐々に追い詰められていく日本軍は、ノモンハンという悲惨な戦いを経験する。

本作では、重要な日本軍参謀が何人か登場するが、中でも作者が殊更言及しているのが、石原莞爾と辻政信である。

石原莞爾は、満州事変の立役者であり、「五族協和」思想の推進者であったが、第5、6巻になってくると、徐々にその影響力を失っていく。元々は、満州事変の成功体験が、関東軍に過度な自信を与え、度重なる謀略による領土拡大という路線をとらせた。

国民党軍の力を削ぐ為、内蒙古の独立を援助する綏遠作戦に向かう三郎に向かって、間垣徳蔵は言う。

「すべて満州事変ではじまった。あの成功が関東軍に妙な特権意識を植えつけた。しかし、今度はかならず失敗する。」

徳蔵の言う通り、綏遠作戦は失敗するが、「満州事変でやったことをやる」と宣言した武藤章などの強硬派に押し切られ、盧溝橋事件が起こり、不拡大路線の石原莞爾は地位を追われて内地に帰国することになる。

「終わったな」「え?」「石原将軍の満州が終わった。王楽浄土の建設を叫ぶ後継者はこの満州にはもういないと言っていいだろう。満鉄の関係者にはまだ残っていても、軍人じゃないんだ、現実には何もできんよ。多くの人間が満州にかけた五族協和の夢は石原将軍の内地への帰国とともに泡と消えていったと考えるしかない。」

12巻の記事で述べた通り、満州事変が引き起こされた当時は、「五族協和思想」がある種の理想的な正当性を持って唱えられていた。また、それを支える「大アジア主義」思想は、具体的な内実を伴っていないお題目でしかない、という点も、34巻の記事で書いた通りである。だからと言って、満州事変や関東軍の謀略的侵略が正当化されるということではない。しかし、たとえ虚構であってたとしても、そのような精神的バックボーンや理論的正当性を失った日本軍は、国内の不満や問題の矛先を回避する為にも、理想なきかつ終わりなき侵略の道を猛進していくことになった、と作者は言いたかったのだろう。それを背景として、現代にも日中韓関係に深い禍根を残す慰安婦問題や南京虐殺事件などの様子も具体的に描かれている。

石原莞爾に代わって陸軍の実権を握るのは東條英機である。そして、石原莞爾を個人的に信奉しながらも、東條英機と同じ拡大路線を主張する辻政信が登場してくる。当時関東軍の参謀であった辻政信は、対ソ戦に積極的でノモンハン事件に火をつけるものの、戦線が不利になり参謀本部が関東軍とは別の司令部を新設すると、急速に手を引いてしまう。また、組織同士の対抗意識から、ハルビン特務機関が事前に集めた極東ソ連軍の情報について真剣に検討せず、多くの陸軍兵士を犬死させる結果となる。数多の人命と国家の命運を賭けた戦いであるにも関わらず、派閥闘争と権力争いに内部分裂する帝国陸軍。ノモンハン事件は、その象徴であり、続く第7、8、9巻と戦争劣勢期に起こる数々の悲惨な戦いを預言している。

とにかく、ノモンハンに関しては帝国陸軍が内包していた矛盾が一気に噴きだした。統帥の乱れ。将官の品性。根拠のない精神主義。うんざりするよ。

作者はこの巻において、肥大化した大日本帝国陸軍の欺瞞、愚劣さを暴き出すと共に、その陸軍に阿り、戦争を賛美する動きが一般国民の中にあったことも見逃していない。

主人公の敷島太郎のように、満州国で高給を食む国務院官僚たち。国家権力と結びつき、軍部の慰安部隊として月給制で囲い込んだ芸人を働かせて大きくなった吉本興業。徴兵者の保険で戦争が長引けば長引くほど儲かる仕組みをつくった富国徴兵保険。世論を焚きつけ戦争報道で部数を伸ばす新聞各社。そして、武漢攻略に際し、「ペン報告文壇部隊」として戦場に同行する多くの文豪たち。

文壇の巨匠たちが陸軍班と海軍班に分かれて漢口に赴くことになったのだ。久米正雄。吉川英治。白井喬二。吉屋信子。佐藤春夫。川口松太郎。岸田国士。林芙美子。小島政二郎。尾崎士郎。滝井孝作。丹羽文雄。深田久弥。こういった錚々たる顔ぶれが合わせて二十二名、戦場に向かう。これはペン報告の文壇部隊と呼ばれることになったという。

支那戦争やがては太平洋戦争へと破滅の道をひた走る日本の大きな流れとは別に、様々な歴史的人物のエピソードが挿入されているのも、この本の面白いところである。

王道楽土たる満州国建国という石原莞爾の思想に共鳴し、息子には板垣征四郎と石原莞爾からそれぞれ一字ずつをもらって名前をつけたという活動家の小沢開作。大杉栄だけでなくその妻と幼い息子までを殺害したとされる冷酷無比な一面をもちながら、不思議と人望厚く、満州国協和会理事長、満州映画協会理事長などの要職に抜擢される甘粕正彦。商工省に岸ありと謳われ、実業を取り仕切るために満州国に迎えられた岸信介。親戚関係にある日産コンツェルンの鮎川義介、満州鉄道総裁の松岡洋右と共に、長州閥勢力として満州の利権を握っていた彼が現安倍総理の祖父であることは言うまでもないだろう。

日本人だけでなく、内蒙古の徳王やインドのチャンドラ・ボースなど様々な人物が登場するが、中でも私が興味を引かれたのは、上海の汪兆銘政権下で特務機関として暗躍したジェスフィールド路76号の指導者である丁黙邨(ていもくそん)とその愛人鄭蘋茹(ていひんじょ・テンピンルー)のエピソードだ。丁黙邨の愛人として近づいた鄭蘋茹は、実は彼の暗殺を目論む共産党側の暗殺組織藍衣社の工作員だった。丁黙邨に毛皮の外套をねだり、毛皮店に連れて行ったところを暗殺しようとして失敗、丁黙邨は血眼になって雲隠れした鄭蘋茹を探し出し銃殺した、というエピソードは、映画『ラスト・コーション』の中に形を変えて描かれている。

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