書評・小説 『きみのためのバラ』 池澤 夏樹


池澤夏樹さんによる極上の短編集。池澤夏樹さんは長編小説で幾つか文学賞を受賞されているが、今までにも何度か書いているように、私は短編小説やエッセイの方が断然良いと思う。今までは『マリコ・マリキータ』と『きみが住む星』が一番好きだったが、本作品も同じかそれ以上に素晴らしかった。間違いなく、私が読んだ短編集の中で最上のものの一つ、マイベスト短編集にランクインする。

飛行機に乗りそびれ、空港周辺で過ごす当てのない時間を描いた「都市生活」から始まり、舞台は、バリ、沖縄、ブラジル奥地、ヘルシンキ、アラスカに近いカナダの辺境、メキシコ、と時代と空間を超えて自由に飛び回る。コロナ禍でどこへも行けない八方塞がりのこんな時期に、世界中を旅して回れるこんな一冊に出会えただけでもありがたい。

『静かな大地』の記事で書いたように、池澤夏樹さんは須賀敦子さんの本を通じて知ったというのが、そもそも幸せな連環なわけだが、この本を読んで、強い共通点を感じた。お二人とも、言葉と文章のセンスが卓越した生粋の詩人なのだ、ということだ。須賀敦子さんの『遠い朝の本たち』を読んだ時にも同じことを感じたのだけれど、この短編集を読むと、「何を書くか」が重要なのではくて、「何を書かないか」こそが重要なのだ、ということを強く感じる。表現者はついつい語ることに熱くなりがちだ。でも、あえて語らないこと、書かないこと、それが、読み手の心の余韻に「響かせる」きっかけになる。もちろん、そこに十分な余白と美しい響きが残るためには、洗練され計算しつくされた「語り」がなくてはならない。でも、その「語り」はとても美しくてシンプルなので、技巧的な感じは全くしない。敢えて語られなかったことに、読み手の想像力と心情が呼応した時、唯一無二の「響き」が実現する。

この本の中で個人的に一番好きだったのは、人生の冬と北欧のそれとが重なり合うような不思議な寂しさと切なさと美しさに満ちた「ヘルシンキ」だった。沖縄の不思議な恋物語を描いた「連夜」もいい。ただ、この作品の魅力を少しでも知ってもらうために説明しやすいのは、表題作かもしれない。

物語は9.11のテロ後の世界、欧州の混み合った電車の中から始まる。持ち主のわからない手荷物に気づき、妻に促されて混み合った車両の中で人を掻き分けて別の車両に移る主人公。そこで、若い頃、アメリカからメキシコまで自由な一人旅をした時のことを不意に思い出す。読者は主人公の記憶と共に、9.11後の「現代」の不安と焦燥に満ちた世界から、若かりし頃の孤独と自由に溢れた世界に引き戻される。この飛翔感がたまらない。本当に、疾走する電車の中からつと飛び立ったような感じが味わえるのだ。

言葉も通じずあてもない旅を続ける若い主人公は、メキシコの首都に向かう汽車の長旅で、美しい少女に出会う。ホームの途中下車で、すれ違い様に言葉を交わしただけの関係で、汽車が終点に着き、このまま別れてしまえば二度と会うことはない。思い立って、彼は一本のバラをホームの道売りから買い、ごった返す車両の人々を掻き分けて、会ったばかりの美少女を探す。目当ての少女をついに見つけ、片言のスペイン語で手渡す。「una rosa para ti きみのためのバラ」と。そして物語は突然終わる。

若さ、自由、孤独、旅、唯一無二の時代と場所。それらがこの短い物語に凝縮されている。そして、巻末の鴻巣友季子さんによる解説にあるように、「言葉」のもつ力と限界も。

あーあ、「何を書かないか」が重要だと言いながら、もうすでに、これだけでも十分語り過ぎている。とにかく、実際に読んで体感してほしい、言いたいのはそれだけなのである。

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