書評・小説 『沖で待つ』 絲山 秋子


絲山秋子さんの芥川賞受賞作。大手住宅設備機器メーカーに就職した女性主人公とその同期のお人好しの「太っちゃん」。のっけから福岡に転勤になった心細い新人時代、仕事を覚えながら必死で働きながら、硬く結ばれる同期同士の友情。太っちゃんが結婚しても、彼が突然の事故で呆気なく亡くなっても続く、切ないようなその関係を描いている。

読んでいて、もう、ものすごく懐かしい感覚が一気に蘇ってきて、その余韻に、しばし本を置いてしまうくらいだった。著者は私より一回り歳上だが、総合職女子が働く現実をそれはそれは的確に捉えている。身も蓋もないほどの現実は、この表題作と同じ文庫本に収録された「勤労感謝の日」の方で、よりリアルに描かれているが、「沖で待つ」の方にも例えばこんなシーンがある。

私は誰とでもそれなりに仲良くやっていたのですが、会社で苦手な場所が二ヶ所あって、それは更衣室を給湯室でした。事務職の女性たちはみんな感じ良く接してくれたのですが、でもやはり私はよそ者でした。

「所長がそげんこと言いよんしゃったとぉ?」と盛り上がっているところに私が入っていくと、みんな笑顔でお疲れさまですと言ってくれるのですが、「もう福岡には慣れましたか?」という完璧な標準語なのでした。

もう分かる過ぎるくらい分かるのである。私も新人時代、ただ1人女性総合職で地方に転勤になった。地方に女性総合職が配属される、というのすら珍しく、見せ物パンダ的な扱いが収まって、それなりに配属先に溶け込んだ後でも、自分がよそ者、という感じはどうしても拭えなかった。同地方で生まれ育ち一般職として就職した女性たちとも、結構上手くやっていたと思うし、彼女たちも親切にしてくれたのだが、やっぱり見えない壁があった。方言の使い方一つで、その感じを的確に描いているのは、著者の鋭い感性の賜物だと感心する。

女性総合職としての、なんとなく身の置き場のない感じや、新人時代のどこかソワソワフワフワした奮闘ぶりなど、懐かしいところはいくつもあるのだが、一番心に迫って来るのは、やはり、主人公と太っちゃんの関係だ。

仕事のことだったら、そいつのために何だってしてやる。

同期ってそんなものじゃないかと思っていました。

「同期って、不思議だよね」

「え」

「いつ会っても楽しいじゃん」

「俺も楽しいよ」

(略)

「楽しいのに不思議と恋愛には発展しねえんだよな」

「するわけないよ。お互いのみっともないとこみんな知ってるんだから」

でもさあ、夏目は石川とやったらしいよ、と言いかけてやめました。たとえ相手が死んでいたって秘密は秘密です。死んでも同期は同期なのですから。

「友情」という言葉ではちょっとニュアンスが違う。これは、どちらかと言えば「同志愛」に近いものだと思う。恋愛感情も介在しなければ、まだ、しがらみや出世なんてものも介在しない。ものすごく強いようでいて、永遠には続かない、モラトリアム期間の絆、みたいなもの。

絲山秋子さんの作品は、先述の併録された「勤労感謝の日」とか、文學界新人賞を受賞した『イッツ・オンリー・トーク』みたいに、面白いけれどちょっと殺伐とした雰囲気が漂っているものが多い。吉田修一さんとか山内マリコさんとか、村田沙耶香さんとか、現代の流行作家にはどこか共通の空虚感と殺伐さがある。そういうのはなんだか自分の汚い内部を曝け出されて放っておかれるようで、なんとなく読むのに気が進まないのだが、一方で「ああ、分かる」という時代のピッタリ感覚が癖になり、ついつい読んでしまう。

この作品は、主人公の新人時代やその時代の同期との関係を、やや美化し過ぎているようなところはあるが、それはきっと作者の絲山さんはわざとやっていて(何度も言うように併録の「勤労感謝の日」の殺伐感は一味違う)、それが一層、このモラトリアム時代とその関係の貴重さ、脆さ、切なさを浮き彫りにしていると思う。

超氷河期時代に就職した私には、95人の同期がいた(それでもバブル時代の1/3以下の人数だった)。就職して5年目に、そのうちの一人が死んだ。まるで太っちゃんと同じようにあっけない突然の事故死だった。深夜のホームで転倒し電車に轢かれたらしい。入社式から一緒に研修先に移動する電車で、話に夢中になって途中停車の駅でドアから重い荷物がホームに転がり出たのに気づかず慌てていた彼だったから、決して絶望して或いは魔が刺しての意図的な行動ではなくて、これもまたドジな事故の一つだったと思いたい。彼とは配属先が離れていたから、特別親しかったわけではない。それなのに、その知らせを聞いた夜、どうしても涙が止まらなかった。

肉親の死も、かつて付き合っていた男の死も、経験したけれど、近しい間柄ほど、自分と切り離してその死を悼むのは難しいものだ。自分と関わりが深ければ深いほど、まず思い出されるのは自分と相手との関係性の中にある事柄ばかりで、本当にその人自身の死を悲しんであげられるのはずっと後になってからでないと難しい。もちろん、自分と全く関わりのない相手の死は、自分を全く投影せずに見れるような相手の死は、殆ど感情を呼び起こさない。

あの夜に流した涙は、限りなく純粋に近く、相手の死を悼んで流した涙だと思う。私はその頃、幸せだった。幸せで余裕があったから泣けたのもある。けれど、一番悲しかったのは、彼がもうこの先そういう幸せも、悲しみすら熱情すら味わうこともなく、既に冷たくなってしまった、という事実で、私とは関係無く、彼のことが可哀想で私は涙が止まらなかったのだ。それは、もちろん恋愛感情でも友情ですらなくて、同志愛というしかないような感情だった。『沖で待つ』を読んで、そんなことを思い出した。

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