書評・経済書 『財政赤字の神話 MMTと国民のための経済の誕生』 ステファニー・ケルトン ①


現代貨幣理論MMT(Modern Monetary Theory)は、変動相場制で自国通貨を有している政府(例えば米国や日本など)は、政府債務ではなく、インフレ率に基づいて財政を調整すべき、という財政規律を主張する論派である。極論すれば、そのような国はインフレさえ起きなければ、財政赤字をいくらでも垂れ流して構わない、ということになる。このポスト・ケインズ派経済学の流れを汲む経済学理論が、コロナ禍の中で、今まで以上に脚光を浴びているのは言うまでもない。

財政赤字はいくらあっても問題無いなんて?と、私自身は結構身構えて読み始めたのだが、前半部分は肩透かしというか、至極当たり前のことしか書いていない。変動相場で自国通貨を発行している政府は、財源の分だけ好きなだけ通貨を発行できるのだから、政府債務がいくら増えてもいっこうに構わない。財政赤字の拡大がインフレを引き起こすというのは幻想に過ぎない。過去に過大な政府債務が問題となってハイパーインフレやデフォルトが起きたのは、固定相場制をとるアルゼンチン、他国通貨建の国債を発行するベネズエラ、そしてユーロ利用のために自国通貨発行をやめたギリシアのような国だけである。従って、金の現物量や他国の通貨所有量に制約されることなく、好きなだけ自国通貨を発行できる国の国債は「借金」ではない。

興味深かったのはむしろ、後半部分、現在のアメリカの格差や予算配分の歪みがどれほど問題か、そのために、積極的な財政支出は是が非でも必要だ、と主張しているところだ。巻末の解説で、井上智洋氏は《主流派経済学者は、MMTに対し「社会主義」というレッテルを貼りがち》と述べ、著者のケルトン氏やMMTの名付け親であるビル・ミッチェル氏は社会主義であることや左派寄りであることを否定している、としながらも、《(ビル・ミッチェル氏が)2019年11月に来日した時には「MMTの源流はマルクスだ」と言っている》と引用している。

確かに、ケルトン氏が本書でMMTの積極的かつ効果的な財政支出の例として何度も言及している《就業保証プログラム》というのは、限りなく社会主義の理想に近いものだと思う。《政府は希望する条件に合った仕事を見つけられないすべての求職者に、仕事と賃金と福利厚生のパッケージを提供》し、その提供する仕事の主なものはケアエコノミー関連にする、という《就業保証プログラム》が、どれだけ実効的かつ効率的なものになりうるのか?社会主義国の数々の失敗例を挙げるまでもなく、完全雇用を目指す政府の大々的な《就業保証プログラム》が、最悪の非効率組織や権力の独裁化の温床となるリスクは、誰もが思い付くだろう。

ただ、これだけ(本人たちが否定しようとも)極めて左派的な経済理論が注目される背景には、アメリカ国内での格差が見過ごせないほどに広がっている現状があるのだ。幾つか引用してみると

寿命をめぐる最大の問題は、それが公平性の問題とかかわっていることだ。寿命は所得と密接な相関がある。統計データは衝撃的だ。学術誌『ジャーナル・オブ・アメリカン・メディカル・アソシエーション』の調査では、アメリカの最富裕層の男性は最貧層の男性と比べて、十五歳近く長生きだ。最富裕層の女性は最貧層の女性より十年ほど長く生きる。

緊急時に400ドルを用意できるかという質問に、できないと答えるアメリカ人は実に40%に達する。誤解しないでいただきたいが、その原因は賃金が低いことだ。まっとうな仕事が十分あれば、このような事態にはならない。

他の調査では、退職に備えた貯蓄がゼロという国民の割合は21%から45%という結果がでおり、貯蓄が5000ドルから1万ドルという人を含めるとその割合ははるかに高くなる。(略)当然、低所得労働者の状況はさらに悪い。51%が老後のための貯蓄を一切していない。(略)しかし国民の77%は年齢や所得水準に対して十分な老後資金を備えていない。

緊急時に400ドル用意、という部分は、4000ドルの間違いでは?と思ってしまうが(4000ドルだったとしても結構ひどい)、これが今のアメリカの現実なのである。老後の貯蓄が1万ドル以下の人が大半、というのも衝撃的である。アメリカの低所得者層の状況がひどいのはある程度予想していたのだが、ミドルクラスが滑り落ちていく(或いは浮上できないでいる)状況を、具体的な例を挙げているのが印象的だった。

紹介された事例のひとつが、コネチカット州ウエストハートフォードに住むともに28歳の夫婦だ。テクノロジー業界で働く二人の年収は合計13万ドル。2人合わせて学生ローンが5万1000ドル、自動車ローンが1万8000ドル、クレジットカード債務が5万ドルある。それに加えて住宅ローンが27万ドル、さらにまだ幼い娘の育児や保育代もかかる。最近は外食もしない。自動車事故に巻き込まれ、債務は一段と増えた。シアトルに住む別の夫婦はともに34歳。年収は合計15万5000ドル、学生ローンは8万8000ドル、毎月息子の保育園代が1200ドルかかる。家賃負担は月1750ドルだ。売り物件の平均価格が75万ドルのシアトルで、寝室が二部屋ある家を買う余裕はない。どちらの夫婦も二人合わせた収入は比較的高いが、貯蓄は言うに及ばず、家も買えない。

この例を見ても分かる通り、最もネックとなっているのは高等教育費用の高さであり、次いで保育費用、住宅費用の高さである。特に、ミドルクラスの年収の裏付けとなっている大部分が高等教育によるものだと考えると、構造的な問題だと言える。要は、ローワーやミドルクラスが年収をアップまたは維持するには大学進学が必要だが、大学進学にかかるコスト分をそれによる年収アップ分で補填しきれていない、ということなのだ。こういう現状では、大学進学費用を負担できるような経済的に恵まれた環境に生まれない限り、下からミドルクラスに浮上するどころか、ミドルクラスを維持するのも難しい。結果として、格差がさらに拡大することになる。住宅費用についても同じことが言えるだろう。これは、今後の日本を考える上でも参考になる。

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