書評・小説 『善き女の愛』 アリス・マンロー


ブッカー国際賞の他、女性作家としては13番目、カナダ人としては初のノーベル文学賞を受賞した作家アリス・マンロー。「短編の名手」と評された彼女の作品を読むのは初めてだったが、表題作からいきなり頭をガツンとやられた感じ。

なんだろう。とにかく短編の書き方が上手い、上手過ぎる。特に表題作の「善き女の愛」。私は基本長編小説の方が好きなので、短編小説についてはあまり知らないのだが、それでも、「名手」と言われる所以が、たった一編だけ読んでも頷けるのだ。緩急のつけ方、ズームと広角のメリハリを効かせたような描写、物語の始まりから終わりまで途切れることのない緊張感を醸し出す予感や予兆のようなもの、、、巧みに構成されながら、技巧的なものを全く感じさせないで、文字通り読者の心を攫って一気に読ませる。

もちろん、彼女の持ち味はその「上手さ」だけではない。内容やテーマの深みや面白さもある。ただ、彼女の場合、「上手さ」があまりに卓越しているので、ついついそちらの方の印象が強くなってしまうだけだ。

興味深かったのは、彼女の作品の中で、妊娠や出産、育児、母と娘の関係など、女性にとって卑近なテーマが多く出てくることだ。社会的なフェミニズム問題というのとも少し違う。もっと生理的に近しい感じ。『世界の8大文学賞』の記事で、ノーベル文学賞は《エンターテイメント性や文学的斬新さよりも「人類にとっての理想」=「人権擁護」や「国内で迫害されている人を描く」という主題の方に重きが置かれている》と書いたが、ノーベル文学賞作家でこういうテーマを描く、というのは、私にはとても新鮮だった。要は、テーマは重苦しいノーベル文学賞向きではないのだ。

例えば、「子供たちは渡さない」で、幼い子供二人を置いて若い男性と駆け落ちした主人公の女性の心理。

これは鋭い痛みだ。慢性的なものになる。慢性的というのは永続的なものになるということだが、たぶん絶えずというわけではないのかもしれない。そして、その痛みのせいでは死なないということでもあるのかもしれない。痛みから解放されることはないだろう、でもそのせいで死んだりはしない。絶えず痛みを感じるわけではないが、何日も痛みなしで過ごすこともないだろう。そして痛みを鈍らせる、あるいは払いのけるコツを身につけるのだ。こんな痛みを背負い込んでまで得たものを結局は台無しにしてしまうことのないように。彼のせいではない。彼は相変わらず無垢というか、粗野で、この世にそんな永続性のある痛みが存在するのを知らない。自分に言い聞かせてごらん、どっちみち失うんじゃないかと。子供たちは大きくなる。母親には、この密やかでいささか滑稽な孤独感が常に待ち受けている。子供達は、今度は忘れてしまう、なんらかの形で母親と縁を切ってしまう。あるいは、こちらがどう対処すればいいのかわからなくなるまでまつわりつく、ブライアンがやっているように。

それでもやはり、なんという痛みだろう。抱え込んで、慣れていって、しまいにそれは彼女の嘆くただの過去になり、可能性のある現在ではなくなるのだ。

それから、個人的に一番好きだった「母の夢」では、母親がどんなに追い込まれても決して泣き止まない赤ちゃんの泣き声についてこんな文章が出てくる。

乳児の泣き声はどうしてあんなに強力で、内面においても外面においてもこちらが頼りにしている秩序を壊すことができるのだろう?まるで嵐だー執拗で、芝居がかっていて、それでいて純粋で巧まざるところがある。哀願というよりは非難だー抑えようのない激しい怒り、愛とも憐れみとも無縁の、こちらの頭蓋のなかで脳みそを押しつぶさんばかりの生得の怒りから発しているのだ。

「母の夢」では、他にも、生まれたばかりの赤ちゃんをどこかに置いてきたまま忘れてしまう、という夢を何度も見る不安とか、ヴァイオリンの練習をし始めた途端に火のついたように泣きまくる赤ちゃんに閉口して仕事を断念せざるをえない葛藤とか、母になった者が皆共感するようなエピソードがさりげなく描かれている。

極めつけは、「変化が起こる前に」で、自分も出産を経験したばかりの医者の娘が、中絶手術をする女性に付き添うシーンだ。『すべての白いものたちの』の記事で書いた通り、私は過去に稽留流産を3度経験している。稽留流産後の処置は、医学的には中絶手術と殆ど同じである。この手術シーンのリアルな描写、特に、子宮口を開くための処置の痛みに女性が耐えるところは、私自身の経験をそのまま物語にしたのではないか、というくらいリアルだった。アリス・マンローが描く女や母は、痛み、感覚、生理がものすごくリアルに伝わってくるのに、ちゃんと客観的に突き放して扱われているところもあって、それがすごいと思う。

この短編集では、「母と娘」というテーマも繰り返し出てくる。「母の夢」の他にも、「セイブ・ザ・リーパー」や「腐るほど金持ち」でも、時には母の視点で、時には娘の視点で、親子の葛藤やそれを乗り越えての自立(母にとっても)が描かれる。母娘関係の葛藤は、血族とか家族意識が伝統的に根強い日本ではよく扱われるテーマだけれど、これは現代文学としては世界的に共通しているようだ。アニタ・ブルックナーの『秋のホテル』でも、マーガレット・アトウッドの『侍女の物語』でも、このテーマはメインテーマやストーリーとは別のところで重層低音のように響いていた。日本でよく描かれる心理的にベタベタの依存関係とはまた少し違う描き方なのが面白い。でも私は、個人的にアニタ・ブルックナーやマーガレット・アトウッドよりも、アリス・マンローの描き方が好きだ。

「母の夢」では、母にどうしても懐かず泣き喚いてさんざんに母を困らせた夜、衰弱した母がミルクに混ぜた睡眠薬で仮死状態になった赤ん坊の「私」は、ある意志を持ってこの世に再び帰ってくる。最後の最後で、私を甘やかし一方的な愛情を注いでくれた叔母のイオナではなく、母親のジルを選ぶ。

それはジルだった。私はジルに、そしてジルから得られるものに、たとえそれが期待したものの半分にしか見えなかろうと、甘んじるしかなかったのだ。

わたしには、あのとき初めて自分が女という性になったように思える。そのことについては生まれるずっとまえから決まっていたのだし、わたしの人生が始まって以来誰にとっても明らかだっということはわかっている。でも、わたしが戻ってこようと決めたあの瞬間、母に抗うのを断念し(あれは母を完全に降伏させるといったことのようなための戦いだったに違いない)、じつのところ、勝つことよりも生き延びることを選んだ(死は勝利となっていたことだろう)あの瞬間に初めて、わたしは自分の女という性を引き受けたのだと思う。

フェミニストには気に入らないかもしれないが、理屈ではない説得力が、アリス・マンローの文章には満ちている。

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