書評・小説『最後の息子』 吉田 修一


夏になると読みたくなる本。吉田修一さん初期の短編集で、文學界新人賞を受賞した「最後の息子」の他、「破片」「Water」の3篇を収録している。

3篇とも良いのだが何と言っても好きなのが、最後の「Water」である。のちに、作者自ら監督となって映画化もしている作品なので、作者の思い入れも強い作品なのだと思う。純度200%の青春夏物語という感じなのだが、微妙に切ないところもあり、大人が読んでも楽しめる。この作品と比較すると、主人公がオカマちゃんのヒモとして暮らす日々を綴った「最後の息子」や、隠れた喪失感を埋めるように謎のリフォームを続け、気づかずに女性にストーカー行為をしてしまう弟を描いた「破片」などの方がやや屈折していて、のちの『パーク・ライフ』や『パレード』を書いた吉田修一らしい。いきなり「Water」だったらピュア過ぎてちょっと鼻白んだかもしれないけれど、時間と屈折度が逆行していくような順番も中々良いのがこの本である。

「Water」は、ただただ水泳のことしか頭にない高校水泳部の4人の男の子の夏物語である。

誰でもいい、四人のうち誰かの頭を割ってみれば、中には陽に輝くプールがあって、ボクらが必死に泳いでいるはずだ。今度の県大会で優勝し、全国大会にとにかく行きたい。ボクらの教科書は自分のタイムを計算した落書きで一杯だし、髪の毛はカルキの匂いがする。そしてボクらの心は、いつもプールの水で水浸しなのだ。

このくらいの年の男の子を主人公にした男性作家の物語を読むと、「本当にこんなに単純だったっけ?」という気がするのだが、多分、きっと、そうなのだろう。ひねくれてこじらせた思春期の女の子とは、また違う味わいがあって、好きである。

時々思うことがある。もしかすると今のボクたちは、絶景の中を通っているのも知らずに、連れとの会話に夢中になっている旅行者のようなもので、どれほど美しい景色の中に今の自分たちがいるのか分かっていないのかもしれない。でも、旅行なんてどこへ行くかより、誰と行くかの方が大切なことじゃないだろうか。

ピュアピュアな少年たちの物語の中に、様々な人の人生や切なさが垣間見える。主人公は、淡い想いを寄せる友達の若い母親が突然家出をしたことを知り、たまたま街で見かけた彼女はあてもなくさまよってビジネスホテルに消えて行く。クールでニヒルな口をきく水泳顧問の女教師は、しょぼくれた背広姿の男に道の上で縋り付いて泣いているところを目撃する。バイク事故で長男を突然失くした母親は、心を病んだまま治りそうにない。

こういうほろ苦い人間ドラマが様々に立ち現れては、「余韻」だけを残して去っていく。そこがいい。以前、フランク・コンロイの『マンハッタン物語』という小説の記事で、《素晴らしい長編小説というものは、主人公だけでなく、出てくる登場人物全てが生き生きとしていて、なんていうか、ちゃんと各々が物語を或いはその余韻を感じさせてくれる》と書いたけれど、これはすばらしい長編小説だけにあてはまるのではなく、短編小説にも言えるんだなあ、と感じた。

本当は重たくて苦いかもしれない人生のあれこれを、若くてまっすぐな主人公は当然受け止めきれないし、消化もできない。どんどん取りこぼしたまま、目の前の部活や恋に気をとられて夏は過ぎていく。でも、消化できないこと、受け止めきれないこともまた、青春のモラトリアム的美しさであり強さである。主人公がとりこぼしているからこそ、隠れている人生の複雑さも主人公の若いかけがえのない夏も、どちらも輝きを増すのだ。

とにかくとにかく「Water」は大好きな作品なのだ。これを読むと、帰宅部で受験勉強していた私にも、さもこんなキラキラした夏があったかのような気がしてくるからゲンキンなものだ。まるで違う人格の違う夏を、若い頃に戻ってもう一度味わったかのようなお得な気分。物語の力は実に強く不思議である。

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