2007年公開、イギリス、フランス、アメリカ制作。『プライドと偏見』で評判の高かったジョー・ライト監督とキーラ・ナイトレイのコンビ第2弾。第65回ゴールデングローブ作品賞、第80回アカデミー賞では7部門にノミネートされ、やはり『プライドと偏見』で音楽を担当したダリオ・マリアネッリの作曲により、作曲賞を受賞した。
原作は、ブッカー賞を受賞したイアン・マキューアンの『贖罪』という作品である。マキューアンは本作を始め、『土曜日」 や 『初夜』などいくつも作品を読んでいる大好きな作家である。
舞台は、第二次世界大戦前夜のイギリス。主人公のブライオニーは、裕福な家庭に生まれ、小説家を志す多感な少女。歳の離れた姉セシーリアと、兄弟同然に育てられた使用人の息子ロビーが、妙な喧嘩をしているところを、傍からじっと見守るところから物語は始まる。
セシーリアとロビーは、お互いの身分の違い、将来は遠く離れ離れにならなければならない運命を感じ取り、惹かれ合いながらも素直になれない、微妙な関係にある。多感で、殆ど妄想癖とも言うべき豊富な想像力をもちあわせたブライオニーは、そんなセシーリアとロビーを、時分なりの幼い解釈で理解しようとする。そして、ある夜、屋敷に泊まっていた年上の従姉が男に悪戯されるという事件が勃発し、思い込みの激しいブライオニーは、自分が犯人=ロビーの姿を見た、と錯覚し、証言してしまう。同じ夜に、ロビーがセシーリアに向けて思わず書いてしまった卑猥な文章の手紙や、図書室で慌しく結ばれる二人を偶然目撃していたことが、ブライオニーの妄想に拍車をかけたのだった。
ロビーは警察に捕まり、未来を失い、大戦の波に飲み込まれ、一歩兵としてフランスの戦場を彷徨う身に。セシーリアはロビーを必死で弁護したものの、聞き入れられず、周囲の家族や上流社会に愛想を尽かし、看護婦となってロンドンに渡る。大人になったブライオニーは、やっと自身の過ちの大きさを悟り、贖罪の意味を込め、自分も看護婦を目指しロンドンへ。そして、地獄のような戦場から戻り、心の傷を負ったロビーと、それを懸命に慰めながら、愛する人との生活を実現しようとするセシーリアの二人の元へ、決死の覚悟で謝罪に訪れるのだった。
最後には、どんでん返しがあり、ブライオニーが二人の元へ謝罪に訪れるシーンは、戦後何十年の月日が流れ、既に老女となった作者=ブライオニーの創造であり、実際には、ロビーとセシーリアは再会を果たせず、それぞれ戦争の惨禍の中で命を落としていたことが判明する、という悲しい結末。つまり、ブライオニーは贖罪を果たせず、その贖罪の意味を込めて、現実とは違う想像の物語を書いた、ということなのだ。
原作の最後には、ブライオニーのこんな言葉が出てくる。
この59年間の問題は次の一点だった-物事の結果すべてを決める絶対権力を握った存在、つまり神でもある小説家は、いかにして贖罪を達成できるだろうか?小説家が訴えかけ、あるいは和解し、あるいは許してもらうことのできるような、より高き人間、より高き存在はない。小説家にとって、自己の外部には何もないのである。なぜなら小説家とは、想像力のなかでみずからの限界と条件とを設定した人間なのだから。神が贖罪することがありえないのと同様、小説家にも贖罪はありえない-たとえ無視論者の小説家であっても。それは常に不可能な仕事だが、そのことが要でもあるのだ。試みることがすべてなのだ。
この言葉からもわかる通り、原作は「書く」ということ、それも、「生きる」ことに肉薄した行為としての「書く」というテーマを、深く掘り下げた作品である。タイトルの「贖罪・つぐない」にも、そういう意味が込められている。「物語」と「現実」が決して同一ではないこと、小説家は「神」になると同時に主観的な一人の人間の視点を免れ得ないこと、そういう物語の限界を知りながらも、書き続けること、それを試み続けることに、最後の救いを見出そうとすること、を主張していると言えるだろう。だからこそ、こんなテーマの作品をどうやって映画化するのだろう、と純粋に興味があった。
映画の方は、ストーリーは忠実に、ただし、「書く」というテーマには焦点を当てずに、ひたすら場面の情景や雰囲気を、映像にこだわって表現することに注力している。イギリスの上流家庭のお屋敷の、豪華だけど物憂げで怠惰な雰囲気、若く美しいセシーリアとロビーの熱っぽく浮かされたような関係、甘やかされた子供の幼さと多感さがないまぜになったブライオニーの少女らしさ、、、前半はそういう、むせ返るような密度の濃い映像に満たされている。後半は一転して、フランスの戦場を渡り歩くロビーや断末魔の苦しみに喘ぐ患者でいっぱいの病院など、戦争の悲惨さを感じる場面が続く。
映画化にあたって、こういう風に潔く作風やテーマを変えてしまう作品の方が、私は好きである。どだい、同じ土俵で勝負しようとしたら、メッセージ量の多さや、受けて側の想像力に訴えられる点などで、映画は原作に勝てない、と思う。(本好きの贔屓目もあるかもしれませんが、、、)原作を忠実になぞってつくったことで、大失敗している映画は数多くある。映画がもつ表現力はもっと別なところにあって、原作のエッセンスだけや、映画の作り手がメッセージとして信じるものを、大胆に映像や音楽に昇華させた方が、良い作品になるような気がする。
映画『つぐない』はそういう意味で、原作とは全然違うタッチの作品にはなっているのだが、これはこれで十分面白い作品だった。同じ監督の『プライドと偏見』も、まだ観ていないのだが、同じく純文学を映画化した作品なので、同じようなテイストでつくられているのではないかと期待している。
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