書評・小説 『第4の神話』 篠田 節子


『第4の神話』をお得に読む

森瑤子マイブーム再燃で、久しぶりにこの作品を読み返してみたくなった。篠田節子さんは、代表作の『女たちのジハード』を、社会人3年目くらいの頃に読んで、時代は少し古いけれど、男社会で奮闘するワーキングウーマン達の心情や描き方にすごく共感した。それから、『ゴサイタン』や『百年の恋』などいくつか彼女の小説を読んでいく中で、偶然にこの作品を手に取り、読み始めてすぐに、これは森瑤子がモデルだな、と気づいた。なんだかんだ言っても森瑤子ファンの私なので、当時は、森瑤子の「死後5年で世間から忘れ去られた、中身の薄い作品を大量に書いた虚しい作家」という感じの描き方がなんとも気に入らなかった、という印象しかない。

バブルが弾けると共に42歳の若さで亡くなった人気作家の夏木柚香。39歳のしがないフリーライターの主人公万智子は、出版社の意図で、「華やかでセレブな美貌のマダム作家」という第1の神話に対し、「妻として母としての苦悩を作品の昇華させた」という第2の神話に基づいた特集記事を書く。しかし、取材の中で作家の人生に興味を持った主人公は、独自の取材を続けていく中で、実は作家は自分自身の浪費や旦那の事業の失敗で莫大な借金を背負っており、また、夫婦仲も最悪な中で複数の男性友人と性的関係を持つなど「借金の穴と自分の空虚さを埋めるために膨大な量の作品を無理矢理に書き続けた」という第3の神話が浮かび上がってくる。一体、どれが本当の彼女なのか、彼女の創作と人生の核になっていたものはなんなのか・・・主人公は悪戦苦闘の模索の上にたどり着いた「第4の神話」とは・・・というストーリー。

前述の通り、15年くらい前に初めて読んだ時には森瑤子モデルとおぼしき作家の捉え方に悪印象を持ってしまったのだが、今回読み直してみて、篠田節子さんが、この作家をただ貶しているわけではなく、世間的に華やかな彼女との対比を通して主人公の未婚のフリーライターの姿を描きたかったのだ、というのはよく理解できた。また、次々にスキャンダラスな実像が明らかになっていく作家を使って、有吉佐和子の『悪女について』を彷彿とさせるような、ミステリー仕立ての小説に仕上がっているのも、篠田節子さんらしくて面白い。

特に、『女たちのジハード』でも見せた「働く女の等身大」みたいな描き方が上手いのだ。主人公の万智子は、いつか自分の名前で本を出すことを夢見ながら、現実には地味なゴーストライターや商業ライターのような仕事ばかりを引き受けるようになり、先々の仕事も収入も安定しないで未婚のまま40手前になってしまった、今で言えば「崖っぷちアラフォー女子」である。ヒモのような男に貢いでしまった苦い過去を持っていたり、中古購入したマンションのローンに怯えながら通帳の残高を気にしたり、地方の老齢の親の介護を気にしてライター業の引退を悩んだり、まあ、それなりに色々ある。セレブで華やかで妻や母であることをこれ見よがしに誇示していたような人気作家に反感を覚えつつも、粘り強く地道にかつ時には大胆に行動しながら、作家の実像に迫ろうとしていく主人公の仕事ぶりは、元仕事女子が読んで共感できる部分がたくさんあった。女一人、自分で稼いでいくことの大変さ、地道さにリアリティがあるし、ただ美化しているわけではなくて、万智子が、零細ながら町工場を経営している《実家という受け皿があるからこそ、途中で商売替えすることもせずに、四十近くまでライターを続けてこられた》《最終的に飢えるという心配がないから、一日千円あれば生きていける、と豪語することもでき》《各出版社の担当に頭を下げて営業活動をすることもせず、仕事が減るにまかせていた》《不本意な仕事をつぎつぎと引き受けては、石にかじりついても物書きを続けようとする男が、万智子の周りにはいくらでもいる》、と自省しつつ開き直るようなシーンもある。女一人で稼いで自立していくことの厳しさと、それでも最終的に避難所が全く無いとか、人を養っていかねばならない責任とか、そういう重たさとは一歩距離を置いていられることの甘さ、というのか。こういうところ、篠田さんはしっかり書いてくれるよなあ、といつも思う。

そういうところはよく書けていて面白いところもあるのだが、全体としてはこの小説、やっぱりちょっと中途半端というか、釈然としないところが残る。どうせ崖っぷちアラフォーの苦闘を描くなら、変に森瑤子おぼしき流行作家の生き様に注目せず、もっとそっちにフォーカスしても良かったのでは。篠田さん自体は、この小説を森瑤子をモデルに書いたとは言っていないようだが、芸大出身の華やかな経歴、夫との確執や借金、死後に娘が暴露本を出版するなど、どう考えても意識しているとしか思えない箇所が多過ぎる。森瑤子については、最近になってノンフィクションライターの島崎今日子さんが『森瑤子の帽子』というルポを出していて面白かったが、これを読んでみても、森瑤子のライフスタイルや交友関係などについて作中の「夏木柚香」にそのままあてはまることが多く、篠田節子さん自身がこの小説を書くにあたり、森瑤子について独自でリサーチしていたのではないか、と推察される。

この小説が出版されたのは1999年、森瑤子が1993年に亡くなり、その2年後に次女のマリア・ブラッキンが『小さな貝殻:母・森瑤子と私』を出版してから数年後のことである。ちょうど、彗星のごとく現れて嵐をごとく去っていった「森瑤子」ブームの火が消え果てた頃だ。この『第四の神話』が書かれてから約20年後の今、確かにバブル時代全盛のブームは去ったけれど、日本人女性の中に意外と根強い森瑤子ファンが存在し続けていることや、「失われた20年」を経てなお(いやだからこそ、かもしれないが)彼女の作品がある種の新鮮さをもって受け取られていることを、私たちは知っている。やっぱり、森瑤子の作家としての虚像と実像に迫ろうとするなら、絶頂期のバブル時代の日本という「時代性」を抜きでは語れない気がするし、そうでなければ、もっと大胆に彼女の中身に立ち入らないと難しいと思う。この『第4の神話』は、作家の実像に肉迫するにはそういう観点や分析が弱いし、その割には、実在の人物へ配慮したせいか、最後に「作家の生き方自体が総合芸術」というような、どこか無理のある救いと言うかカタルシスを用意していて、なんとも中途半端感が否めない。そんなことするくらいなら、有吉佐和子の『悪女について』くらい破天荒な人物にして読者をケムに巻いてしまった方が良かったのではないか。

ま、森瑤子ファンとしてはどことなく不満の残る作品だが、また彼女自身の作品とは違う観点で彼女を見るのも面白い。私は、作家や芸術家の内面とか人生と言うのには通常興味を持たなくて、基本的に作品だけで判断したい派なのだが、この作品を読んだお陰で返って興味が沸いてしまい、『森瑤子の帽子』やら『小さな貝殻』やらまで読んでしまったので、それはまた別の機会に記事にしたい。今更の森瑤子マイブームはまだまだ続く。

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