川端康成の小説を一通り読んでいたのは、10代後半から20代前半にかけてだったと思うので、再読は20年ぶり近くになるのか。この作品が特に印象深かったわけではないが、kindleで購入できたのと、タイトル的に、一応妻となり母となった後に読んだらまた感じ方が違うかなぁ、と思ったから。
読後感としては、うーん、なんだかなぁ…と、どことなくスッキリしない感じ。子供はないが何不自由なく暮らす40前後の佐山夫妻。その周りをさかえと妙子という若い女がウロウロして、うだうだしているという話(どんな話や)。
川端康成が女をそうだと思っているように、とにかくうだうだしているのだが、なんというか、女たちが魅力ない。
さんざんみんなを引っ掻き回す、さかえにいたっては、作者はきっと魅力的に描きたかったのだろうが、頭は悪いし性格は悪いし、若くて美しい以外に取り柄がないので、女性から見ると全く魅力がなく、これを「不安定で縛りがなくて魅力的」と感じるのはおっさん以外の何物でもない。
主人公の市子夫人も、理想型に描いているのだろうが、覇気もないし、感は良くても感覚的過ぎて頭の冴えが感じられなくてやはり魅力に乏しい。
男に囲われて生産的なことを何もしていない女性たちがひたすらうだうだしている感がある。
と言っても、私は、その手の話が実は好きなのである。ある意味「究極のうだうだ話」とも言える、谷崎潤一郎の『細雪』を3回も読むほと好きなのだから。
デカダンスとスノビッシュは大好物なのである。
だから、なぜ、文豪のこの作品にケチをつけたくなるのか、自分でも不思議だったのだが、実はタイトルのせいなのではないか、と気がついた。『女であること』だと、女の視点から女を描いているように思えてしまう。この作品は全くもって「女であること」には迫っていない、と感じてしまう。そのタイトルは、有吉佐和子さんあたりに任せて、文豪は『女というもの』あたりのタイトルで落ち着けば良かったのに、などと勝手なことを思ったのでありました。
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