時代は7世紀、中国は唐の時代。こんなはるか昔の中国について書かれた本を手に取ったのは、まず著者に興味があったからだ。
シャン・サは1972年、中国生まれ。天安門事件の後、家族と共に国を追われるようにしてフランスに移住。ピカソに「二十世紀最後の巨匠」と讃えられたという画家バルテュスの元で秘書を勤めるなどした後、25才の時に書いた『天安門』でゴンクール賞最優秀新人賞を受賞。続く『Les quatre vies du saule』でカゼス=リップ賞、『碁を打つ女』で高校生が選ぶゴンクール賞を受賞している。本書はフランス語での出版4作目となるが、フランス国内で10万部を超えるベストセラーとなり、20か国語に翻訳されている。渡仏当時にはフランス語を全く話せなかったという彼女が、わずか10年でフランスの権威ある文学賞を次々と受賞し、ベストセラー作家となっているとは、あんまり出来過ぎで、何やら狐につままれたような話である。
読み始めてまずその文体に引き込まれた。なんと11歳の時に中国で処女詩集を出版したという著者だが、確かに、繰り返される言葉の羅列、きめ細かな描写と余韻、まるで長い長い古代の叙事詩を読んでいるような気分にさせられる。特に、詳細な具体的な事物の羅列が多いのだが、その文体に田中優子著の『江戸はネットワーク』で「言葉の列挙は呪術的な要素を持っている」という主旨のことが書かれていたことを思い出した。
宮城や後宮の様、立后の儀、そして古代から伝わる泰山での封禅の大義などのシーンに、こう言った《呪術的な様式》の描写がふんだんに使われている。
中国の歴史にはとんと明るくない私でも、則天武后の名前はさすがに知っている。なんと言っても、呂太后・西太后と並び「中国3大悪女」として名を馳せる人物である。
武則天がなぜにこれほどまでに悪女扱いされるかと言えば、権力をほしいままにしたからではない。皇帝をたぶらかし悪政を行ったからでもない。それは彼女が女なのに「皇帝」を名乗ったからである。平民の出で太宗の後宮の末端に出仕し、一度も皇帝から寵愛を得ることもなく世を終えるはずだった彼女は、息子の高宗にみそめられ、再度後宮に召し抱えられる。つまり、父と息子それぞれの妻として迎えられたわけだ。それだけでも前代未聞のことであったのに、元々の正妻を押しのけて、身分の低い立場から立后を遂げた。異例づくしの彼女だが、高宗の死後にとんでもないことをしてみせる。父方の武氏が古代周王朝の王家の血筋であると主張し、三代続いた唐朝を否定して、新しい周朝の開祖、聖神皇帝として君臨するのである。
そういう意味で、この物語は、武則天という女性による男系権力構造へのアンチテーゼという側面を持っている。古今東西、歴史を紐解くと、男系王朝というのは、常に二種類の圧力に苦しめられてきた。
一番大きなものは、言うまでもなく兄弟間の争いである。大体において直系の長男が後継となるのが普通だが、次男三男が反旗を翻す例はそれこそあらゆる国と時代で数え切れないほど起こってきた。直接の反乱には至らなくとも、領土や権力を温存した分家一族が、王の対抗勢力となり火種として燻り続けていたことは、『聖なる王権ブルボン家』や小説『ウルフ・ホール』の記事でも触れている。
もう一つ大きな圧力は、王妃や寵妃の外戚である。直系にこだわることで、王には一大ハーレムが築かれる。中国の後宮とイスラムのハーレムはその最たるものだが、日本でも、一夫一妻を前提とするはずのキリスト教国でも、建前を除けば同じようなものである。すると、王妃や寵妃の父親兄弟などの外戚勢力が幅を利かせることになる。かくして、女を囲い込んだ挙句に女に翻弄される、皮肉な構図が完成する。
武則天の政治を具に見ると、男系王朝の既存勢力を悉く否定していることに驚かされる。自分の異母兄弟を廃して外戚勢力を寄せ付けず、遷都や民衆から直接訴えを受け付ける「国密の門」の制度を通して、既得権益から距離を置いた。中でも画期的だったのは、不定期だった試験を年に1回と定め、最終試験は皇后自ら試験官を務める、といった科挙制度の抜本的な改革である。身分出自に関係なく有能な者を官吏に採用する、と言う近代的民主的なコンセプトが、この時代に導入されていたことは、驚くべきことである。
早くに父親を亡くして没落し、異母兄弟からは蔑まれ、仏門に入れられたかと思えば、若い身空で後宮に売られ、老帝の寵愛を受けるでもなく華ある時を囚われの身で虚しく散らしたかと思えば、再び仏門に入れられた後に、また後宮に呼び戻される。女として翻弄され続けた前半生と、彼女が行った数々の施策、偉業、そして新王朝の開朝というとんでもない離れ業。そういうものが一本で繋がり、古い時代の異国の遠いはずの物語が、不思議に現代に肉薄した力を持って迫ってくる。
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